もし光秀が坂本城ごと義昭方に転じていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

明智光秀は、足利義昭を将軍にする過程に関わりながら、のちに織田信長の家臣として重用された武将です。元亀4年(1573年)に義昭が信長と対立して兵を挙げたとき、光秀は信長方として義昭の軍勢と戦いました。

この場面で何が起きていた?

義昭方は近江の石山や今堅田に兵を入れ、信長に対抗します。信長は柴田勝家や光秀らにその攻略を命じました。光秀は命令に従い、琵琶湖上から今堅田を攻め落としています。

史実ではこうだった

元亀四年二月、近江。織田信長との対立を深めた将軍・足利義昭は、石山や今堅田に兵を入れ、信長に対抗する姿勢を明らかにした。信長は実子を人質に出すことまで示して和議を求めたが、義昭は応じなかった。 信長は柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆に義昭方の拠点を攻めるよう命じた。石山は降伏し、続いて光秀らは今堅田を攻撃する。光秀は琵琶湖上から兵を進め、義昭方を破った。 四月、信長は大軍を率いて上洛し、義昭への圧力を強めた。朝廷の仲介も入り、両者はいったん和睦する。 しかし対立は終わらなかった。七月、義昭は再び挙兵して槇島城に籠もる。信長軍の攻撃を受けて降伏し、義昭は京都を離れることになった。

もしここが変わったら?

もし光秀が今堅田を攻めず、坂本城の門を閉ざして義昭方についたらどうなるでしょうか。浅井・朝倉と京の義昭の間に坂本という新たな拠点が加わったとき、信長は同じように義昭を追い詰められるのでしょうか。

今回の視点俯瞰視点

坂本の一発――光秀、信長包囲網に立つ

元亀四年二月、坂本城へ信長の使者が入った。

「石山、今堅田を討てとの御意です。柴田殿らは、すでに兵を動かしております」

光秀は使者を見た。

「明智勢は出さぬ。将軍家へ兵は向けぬ」

「御下知に背かれると」

「坂本は、このまま公方様につく」

使者が去ると、光秀は城門を開かせた。

「信長公のもとへ戻る者は止めぬ」

続いて溝尾庄兵衛を呼び、書状を渡した。

「京へ走れ。公方様に申し上げよ。明智光秀は、坂本をもって御味方すると」

ほどなく織田勢が城門前まで迫った。

「門を開けよ! 上様の御下知である!」

城壁の兵が光秀を見た。

「撃ちまするか」

光秀は、昨日まで並んで戦った旗から目を離さなかった。

「撃て」

火縄が弾けた。先頭の馬が倒れ、織田勢は門前から退いた。

数日後、勝家が兵を率いて坂本へ現れた。城外に織田の旗が並び、包囲が敷かれると、その中から一人の使者が門前へ進み出た。

「上様は、今なら帰参を許されるとのこと」

光秀は城壁の上から使者を見下ろした。

「帰参はせぬ。門も開けぬ」

使者はしばらく城壁を見上げていたが、やがて馬首を返した。

やがて信長自身も京へ入り、坂本への圧力を強めていたが、坂本の包囲が解けぬまま四月に入ると、甲斐から武田信玄死去の報が届いた。

信長は坂本へ兵を進め、自ら勝家の陣に入った。その報せが坂本城内へ届くと、光秀は家臣を呼んだ。

「瀬田(せた)の山岡景隆(やまおか・かげたか)へ使者を出せ」

使者は瀬田城で景隆に光秀の書状を渡した。

「弟の景友は、すでに公方様に従っております。明智殿まで立たれた今、瀬田だけを信長に渡しておくつもりはございませぬ」

「唐橋を閉じ、織田勢は通しませぬ」

そのころ、京の義昭も、浅井長政へさらに書状を出していた。

「小谷へ急がせよ。山科の兵も備えさせる。越前へも使いを出せ」

やがて信長の陣へ使番が駆け込んできた。

「坂本から明智方の使者が瀬田へ入りました。山岡景隆、将軍方につき、唐橋を閉じております。瀬田へ向けた兵が渡れませぬ」

続いて北から報せが入った。

「浅井勢、南へ下っております」

京からも急使が入った。

「義昭方、山科へ兵を出しております」

信長は坂本を見た。

「光秀め。瀬田まで動いたか」

「坂本は後だ。勝家を瀬田へ向けよ。唐橋を取り返す」

勝家が坂本の囲みを解くと、光秀も兵を動かした。坂本に守りを残し、一隊を大津へ出して、そこから逢坂へ向かう道を押さえさせた。

そのころ、信長の陣に瀬田の勝家から使者が到着した。

「唐橋、いまだ奪えませぬ。勝家殿より、援兵を願いたいとのこと」

「長秀を瀬田へ回せ」

「逢坂には明智勢が迫っております」

「北は」

「浅井勢が佐和山まで出ております」

「援兵は出せぬ」

勝家はなお唐橋を攻めたが、数日後、再び使者が信長の陣へ入った。

「唐橋、なお渡れませぬ」

信長は膝の上の手を握った。

「義昭へ使者を出せ」

その使者が京の義昭のもとへ入った。

「上様は、京に置いた兵を退かせるとの御意です。坂本にも兵を向けませぬ。御子息を人質として差し出し、和議を願いたいとのこと」

義昭は使者を見た。

「坂本にも兵を向けぬと申したな」

「はっ」

「ならば三か条とも、起請文に認めよ。子が京へ入るまでは、山科の兵は収めぬ」

ほどなく信長の子を伴った一行が京へ入り、その報せが光秀に届いたころ、坂本城に義昭の使者が現れた。

「公方様より。次の評定は坂本で開くとのこと。浅井殿、朝倉殿にも使いを出されました」

光秀は広間の戸を開かせた。

「席を整えよ」

昼前、小谷から浅井の使者が到着し、ほどなく越前からの一行も坂本へ入った。

光秀は二組の使者を広間へ通した。

史実との差分

史実では、足利義昭が信長に対抗して兵を挙げた際、明智光秀は義昭方にはつかず、柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆らとともに信長方として石山・今堅田を攻めた。本作では光秀がその命令を拒み、居城の坂本城と兵を率いて義昭方へ転じることで、近江の軍事配置と信長・義昭の力関係が変化する。

読者ノート

光秀が義昭方につくことは、一人の武将が寝返るだけではありません。京都と近江を結ぶ坂本城まで信長の支配から外れます。本作では、そこから瀬田(せた)・浅井へ動きが広がり、信長が一方向に兵を集中できなくなる過程を描いています。

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