全年表
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戦国時代
- 北条早雲伊勢氏の一族として生まれる(幼名は伊勢新九郎、諱は盛時)
- 北条早雲今川家の家督争いを収めて甥・氏親を当主に擁立し、その功で駿河・興国寺城を得て独立した所領を持つ
北条早雲伊豆討ち入り▼
明応(めいおう)2年(1493年)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆へ討ち入り、堀越公方(ほりごえくぼう)・足利茶々丸を追放した事件。守護でも名門でもない武将が一国を奪い取った、戦国時代の幕開けを象徴する出来事とされる。
史実
伊豆では、室町幕府が関東支配のために置いた堀越公方(ほりごえくぼう)・足利政知が没した後、子の茶々丸が継母と異母弟を殺して家督を奪い、家中は乱れていた。駿河で甥・今川氏親(いまがわ・うじちか)の後ろ盾を得ていた伊勢宗瑞(そうずい)は、この内紛と、京で起きた明応(めいおう)の政変(細川政元による将軍すげ替え)に呼応する形で伊豆へ攻め入った。宗瑞は手勢に今川の支援を加え、堀越御所(ほりごえごしょ)を急襲して茶々丸を追った。茶々丸は一度は逃れて伊豆の山間部や周辺で抵抗を続けたが、宗瑞は数年をかけて伊豆一国を平定した。守護に任じられたわけでも家を継いだわけでもない宗瑞が、実力で一国の主となったこの事件は、後の下剋上の先駆けと評され、戦国時代の始まりを示す画期のひとつに数えられる。なお宗瑞の伊豆攻めの年次は延徳3年(1491年)とする説もあり、明応2年(1493年)説が近年有力とされる。
北条早雲小田原城奪取▼
明応(めいおう)年間、伊勢宗瑞(北条早雲)が相模の大森藤頼(おおもり・ふじより)から小田原城を奪い取った事件。鹿狩りを装って城へ近づき、夜に多数の牛の角へ松明を結んで大軍に見せかけたという伝説で知られる。
史実
小田原城は相模西部を押さえる要衝で、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏に従う大森氏が拠っていた。伊豆を平定した宗瑞(そうずい)は相模進出をうかがい、明応(めいおう)年間に大森藤頼(おおもり・ふじより)の油断を突いて小田原城を奪ったと伝わる。広く知られる「鹿狩りと偽って勢子(せこ)を城近くに入れ、夜陰に千頭の牛の角へ松明をくくりつけて大軍の襲来と思わせ、混乱に乗じて城を奪った」という逸話は、後世の軍記物に由来する伝説的色彩が濃く、史実としての裏付けは乏しい。奪取の年次も明応4年(1495年)説と明応5年(1496年)説があり確定していない。確かなのは、宗瑞がこの城を得たことで相模への足がかりを築き、以後の三浦氏との抗争と相模平定、そして小田原を本拠とする後北条氏の発展につながった点である。
- 北条早雲立河原の戦いで扇谷上杉勢を破り、関東へ進出
- 北条早雲新井城の戦いで三浦氏を滅ぼし、相模を平定
- 北条早雲家督を子・氏綱に譲る
- 北条早雲韮山城で病没(享年64)
- 武田信玄甲斐の守護・武田信虎の長男として誕生
- 明智光秀美濃国で誕生(生年には1516年など諸説あり)
- 織田信長尾張国で織田信秀の三男として誕生
- 豊臣秀吉尾張国愛知郡中村で誕生(出自は諸説あり)
- 豊臣秀長尾張に生まれる(秀吉の弟。実名は長秀、のちに秀長)
- 武田信玄父・信虎を駿河に追放し、家督を継ぐ
- 徳川家康三河岡崎で松平広忠の長男として誕生
- 竹中半兵衛美濃国で竹中重元の子として誕生(実名は重治)
- 山中鹿之助出雲国で尼子氏家臣・山中満幸の次男として誕生(実名は幸盛、幼名は甚次郎)
- 黒田官兵衛播磨国姫路で、小寺氏家老・黒田職隆の子として誕生(実名は孝高)
- 徳川家康父・広忠の死去により松平家の家督を相続(7歳。人質中のため実権は1560年以降)
- 織田信長父・信秀の死で家督を相続(17歳)
- 豊臣秀吉織田信長に仕える(木下藤吉郎)
- 織田信長稲生の戦いで弟・信行を破る
織田信長桶狭間の戦い▼
永禄3年(1560年)、尾張の織田信長がわずか3000の兵で2万5千の今川義元軍を急襲し、義元を討ち取った戦国史上屈指の奇襲戦。
史実
5月19日、駿河・遠江・三河を支配する今川義元は、約2万5千の大軍を率いて尾張へ侵攻。鳴海・大高・沓掛(くつかけ)の各城を経由しつつ進軍し、田楽狭間で休息を取っていた。報告を受けた信長は清洲城で戦評定を開いたが多くの家臣は籠城を主張。信長は深夜、敦盛を舞った後に出陣を決断。熱田神宮で戦勝祈願を行い、わずか3000の手勢で善照寺砦に進出した。午後に突如降り出した豪雨に紛れて田楽狭間の今川本陣を急襲。混乱した今川軍を切り崩し、毛利新介が義元の首を取った。当時27歳の信長にとって、この勝利が天下統一への第一歩となった。今川家は当主を失って急速に衰退し、徳川家康(当時松平元康)は今川から独立する道を選ぶこととなる。
- 徳川家康桶狭間の戦い後、岡崎に帰還し独立
- 石田三成近江国坂田郡石田村に誕生
- 直江兼続越後国坂戸城下にて上田衆・樋口兼豊の長男として誕生(幼名は与六)
- 山中鹿之助兄・幸久が病弱であったため、山中家の家督を相続
武田信玄第四次川中島の戦い▼
永禄4年(1561年)、信濃川中島で武田信玄と上杉謙信が激突した、5度の川中島合戦のうち最大の激戦。
史実
9月10日未明、信玄は軍師・山本勘助(やまもと・かんすけ)の進言により『啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)』を発動した。武田勢を二手に分け、別働隊1万2千が妻女山(さいじょさん)の上杉謙信を背後から襲い、八幡原(はちまんぱら)で待ち構える信玄本隊8千で挟撃する作戦だった。しかし謙信は武田陣の炊飯の煙の量から作戦を察知し、夜のうちに密かに山を降りていた。霧が晴れた朝、信玄本陣の前に現れたのは1万3千の上杉主力勢で、武田は予期せぬ急襲を受けた。武田信繁(信玄の弟)、山本勘助、諸角虎定(もろずみ・とらさだ)ら多くの重臣を失う激戦となり、信玄と謙信の一騎打ち伝説もこの混戦から生まれた。午後に別働隊が戻って上杉勢を挟撃すると謙信は越後へ撤退。死傷者は両軍合わせて1万人以上にのぼり、戦術的には上杉の勝利、戦略的には武田の勝利という珍しい結末となった。武田はその後も川中島地域の支配を維持した。
- 豊臣秀吉浅野長勝の養女ねね(北政所)と結婚
竹中半兵衛稲葉山城乗っ取り▼
永禄7年(1564年)、竹中半兵衛がわずか十数名の手勢で、主君・斎藤龍興(さいとう・たつおき)の居城である稲葉山(いなばやま)城を一夜にして乗っ取った、戦国でも屈指の奇略とされる事件。
史実
美濃斎藤家に仕えていた竹中半兵衛は、若き当主・斎藤龍興(さいとう・たつおき)が酒色に溺れ、佞臣を重んじて半兵衛ら有能な家臣を軽んじることに憤っていた。永禄7年(1564年)、半兵衛は城中に勤める弟の見舞いを口実に、武具を運び込ませるなどの周到な手はずを整え、わずか十数名(一説に十六〜十七名)で稲葉山(いなばやま)城を急襲・占拠した。義父である西美濃三人衆の安藤守就(あんどう・もりなり)も呼応したとされる。不意を突かれた龍興は城を追われた。半兵衛の狙いは領地や謀反ではなく、暗愚な主君を諫めることにあったとされ、半年ほどの後に城を龍興へ返還し、自らは隠棲したと伝わる。この鮮やかな手際は織田信長や羽柴秀吉の耳にも届き、後に秀吉が三顧の礼(さんこのれい)をもって半兵衛を軍師に迎える伏線となった。なお信長は当時、美濃攻略を着々と進めており、斎藤家中のこの動揺は美濃の命運にも影を落とした。3年後の永禄10年(1567年)、信長は稲葉山城を落として美濃を平定し、半兵衛はやがて秀吉に仕えることになる。
- 豊臣秀長兄・秀吉に従って武将となり、その片腕として各地を転戦する
山中鹿之助尼子再興軍の結成▼
永禄12年(1569年)、山中鹿之助らが尼子氏再興のため、新宮党(しんぐうとう)の遺児である尼子勝久(あまこ・かつひさ)を擁立して起兵した出来事。
史実
永禄9年(1566年)、毛利元就の包囲により月山富田城(がっさんとだじょう)が落城し、尼子氏は滅亡した。遺臣である山中鹿之助は主家再興を胸に誓い、京都の東福寺で仏門に入っていた尼子勝久(新宮党の遺児)を説得して還俗させた。永禄12年(1569年)6月、鹿之助らは隠岐国の有力者・隠岐為清(おき・ためきよ)らの支援を得て、出雲国へ上陸。旧臣たちに呼びかけて起兵した。当時、毛利氏は九州の大友氏との戦いに主力を注いでいたため、出雲は手薄であった。尼子再興軍はたちまち数千の勢力に膨れ上がり、新山城(しんやまじょう)を攻略して出雲の大部分を一時的に奪還。月山富田城を包囲するなど、毛利氏の背後を大いに脅かした。しかし、翌年に毛利軍が精鋭を率いて山陰に急行し、布部山(ふべやま)の戦いで再興軍は敗北を喫することとなる。
武田信玄西上作戦と信玄の死▼
元亀3年(1572年)、武田信玄が京を目指して開始した遠征。進軍途中で病没し、戦国最大級のifとされる。
史実
信玄は2万5千の大軍を率いて10月に甲府を出立。当時、織田信長は浅井・朝倉、本願寺、足利義昭らとの対立で四面楚歌の状況にあり、信玄の西上は信長包囲網の最大の希望だった。12月22日、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を完膚なきまでに撃破。家康はわずかな供回りで浜松城へ逃げ帰り、自らの惨めな姿を絵師に描かせて生涯の戒めとした(『しかみ像(しかみぞう)』)。しかし翌1573年4月12日、進軍途中の信濃駒場(現・長野県下伊那郡阿智村)で信玄は病没した。享年53。死因は肺結核とも胃癌とも言われる(諸説あり)。信玄は『自分の死を3年間秘せよ』と遺言したが、情報は徐々に漏れ、信長は『天下の儀、もはや案ずるに足らず』と喜んだとされる。後継の武田勝頼(たけだ・かつより)は1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、武田家は1582年に滅亡した。
- 織田信長足利義昭を追放、室町幕府滅亡
- 豊臣秀吉近江長浜城主となり、羽柴姓を名乗る
安土桃山時代
- 石田三成秀吉に仕える(三献茶の逸話)
織田信長長篠の戦い▼
天正3年(1575年)、織田信長・徳川家康の連合軍が、武田勝頼(たけだ・かつより)の騎馬隊を鉄砲と馬防柵で撃破した戦い。武田家衰退の決定打となった。
史実
5月21日、三河国長篠城を包囲していた武田勝頼(たけだ・かつより)軍1万5千に対し、信長3万・家康8千の連合軍が設楽原に布陣。信長は鉄砲3千丁(諸説あり)を用意し、馬防柵を三重に築いた。武田重臣の山県昌景(やまがた・まさかげ)・馬場信春(ばば・のぶはる)・内藤昌豊(ないとう・まさとよ)らは決戦回避と撤退を進言したが、勝頼はこれを退け突撃を選択。鉄砲の交互射撃と馬防柵に阻まれ、武田の精鋭騎馬隊は壊滅した。この戦いで武田は山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・原昌胤・真田信綱・真田昌輝ら『武田四天王』を含む多くの重臣を失い、騎馬軍団としての武田家は実質的に消滅。1582年の武田家滅亡への道が決定づけられた。鉄砲の集団運用が騎馬戦法を凌駕した戦術革命の象徴として、世界戦史にも名を残す。
- 真田昌幸長篠の戦いで兄・信綱と昌輝が戦死し、真田家の家督を継ぐ
- 明智光秀丹波攻略を開始
- 黒田官兵衛主君・小寺政職に織田信長への臣従を進言し、羽柴秀吉との取次役となる
- 織田信長安土城築城を開始
山中鹿之助上月城の戦い▼
天正6年(1578年)、播磨上月城(こうづきじょう)に籠もる尼子再興軍に対し、毛利軍が包囲。織田軍(羽柴秀吉)が救援を断念して撤退した事件。
史実
天正5年(1577年)から始まった織田信長の中国攻略において、羽柴秀吉は播磨の最前線である上月城(こうづきじょう)に尼子勝久(あまこ・かつひさ)・山中鹿之助らの尼子再興軍を配置した。しかし天正6年(1578年)、毛利軍の吉川元春(きっかわ・もとはる)・小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)らが率いる約3万の大軍が上月城を急襲。時を同じくして、播磨では別所長治(べっしょ・ながはる)が三木城で織田に反旗を翻していた。背後に大規模な反乱を抱えた織田信長は戦力分散を恐れ、秀吉に対し「上月城を見捨て、書写山まで後退して三木城攻めに集中せよ」と厳命した。秀吉は非情の命令に従い撤退。孤立無援となった上月城の尼子軍は数か月の籠城の末に降伏した。尼子勝久は一族とともに自刃し、尼子氏は完全に滅亡。山中鹿之助は捕縛され、毛利の本陣へ護送される途中に備中国阿井の渡し(あいのわたし)で暗殺された。これにより鹿之助の尼子再興の執念は悲劇的な結末を迎えた。
- 山中鹿之助上月城が落城。尼子勝久は切腹し、尼子氏は滅亡する
- 山中鹿之助捕虜として毛利本陣へ護送される途中、備中国阿井の渡しにて暗殺される(享年34)
黒田官兵衛有岡城幽閉▼
天正6年(1578年)、織田信長に反旗を翻した荒木村重(あらき・むらしげ)を説得するため、黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)が単身有岡城(ありおかじょう)に乗り込み、捕らえられて土牢(つちろう)に幽閉された出来事。
史実
天正6年(1578年)10月、摂津の荒木村重(あらき・むらしげ)が信長に対して突如謀反を起こした。東播磨を平定しつつあった信長にとって、有岡城(ありおかじょう)の村重の離反は致命的な脅威であった。小寺政職(こでら・まさもと)の使者として、また個人的な説得を試みるため、黒田官兵衛(当時33歳)は単身で有岡城へ赴く。しかし説得は受け入れられず、官兵衛は捕らえられ土牢(つちろう)へと幽閉された。主君・小寺政職の裏切りも重なり、官兵衛の消息は途絶え、信長は官兵衛が荒木方に寝返ったと誤解。怒り狂った信長は、人質として信長側に送られていた官兵衛の嫡男・松寿丸(しょうじゅまる)の処刑を命じた。だが、同僚の軍師・竹中半兵衛が機転を利かせて松寿丸を匿い、辛うじてその命を救った。官兵衛は約1年間にわたり狭く不衛生な牢に囚われ続け、脚に終生残る障害を負った。天正7年10月、有岡城が落城した際、黒田家の家臣団によって無事に救出され、自身の潔白と息子の生存を知らされることとなる。
- 直江兼続上杉謙信の急死に伴う御館の乱において、主君・上杉景勝を支持し勝利に貢献。側近として重用される
- 竹中半兵衛黒田官兵衛の有岡城幽閉中、信長の処刑命令に背き、嫡子・松寿丸を匿って救う
竹中半兵衛三木城攻めと半兵衛の最期▼
天正7年(1579年)、別所長治(べっしょ・ながはる)の籠もる三木城を兵糧攻め(三木の干殺し(ほしごろし))にする最中、羽柴秀吉の軍師・竹中半兵衛が陣中で病に倒れ、36歳で没した。その前年には信長の処刑命令に背いて黒田家の嫡子・松寿丸(しょうじゅまる)を救っており、半兵衛が最期に遺した働きが黒田家の運命を支えたことでも知られる。
史実
天正6年(1578年)、東播磨の別所長治(べっしょ・ながはる)が織田方に叛いて三木城に籠城すると、羽柴秀吉は信長の中国方面軍として攻略にあたった。竹中半兵衛は黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)とともに秀吉の参謀を務め、堅城を力攻めするのを避けて補給路を断つ兵糧攻め(三木の干殺し(ほしごろし))を進めたとされる。同じ頃、官兵衛は摂津有岡城(ありおかじょう)に叛いた荒木村重(あらき・むらしげ)を翻意させようと単身赴いて捕らえられ、長く幽閉されて生死不明となった。信長は官兵衛が寝返ったと疑い、人質に取っていた官兵衛の嫡子・松寿丸(のちの黒田長政(くろだ・ながまさ)、当時十歳ほど)を殺すよう秀吉に命じる。半兵衛は主命に背き、松寿丸を密かに自領へ匿って『処刑した』と偽り、その命を救った。翌天正7年、有岡城が落ちて官兵衛が生還すると松寿丸の無事が判明し、官兵衛は半兵衛に深い恩義を抱いたという。だが半兵衛自身は労咳(肺の病)が重くなり、京都で養生していたが、病をおして三木の陣に戻り、天正7年6月13日、播磨平井山(ひらいやま)の本陣で没した。享年36。半兵衛が救った松寿丸=黒田長政は、のちに関ヶ原の戦いで東軍勝利に大功を立て、筑前福岡52万石の礎を築く。『今孔明(いまこうめい)』と称された半兵衛の早世は深く惜しまれ、黒田官兵衛とあわせて『両兵衛』と並び称された。
- 竹中半兵衛播磨平井山の陣中で病没(労咳、享年36)
- 明智光秀丹波・丹後を平定し、亀山城を本拠とする
明智光秀信長が長宗我部元親との約束を翻す▼
織田信長が、当初認めていた長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)の四国切り取りの約束を翻し、阿波・讃岐の割譲を迫って四国攻めへと向かった外交上の転機。取次を務めた明智光秀の面目と立場を大きく揺るがした。
史実
長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)は土佐を統一し、1570年代から80年代にかけて阿波・讃岐・伊予へと勢力を広げ、四国の過半を制した。織田信長は当初、元親の『四国切り取り次第』を認め、両家の取次を明智光秀が担った。光秀の家老・斎藤利三(さいとう・としみつ)は元親と縁戚にあたり、明智家は長宗我部と密接につながっていた。しかし天正8年(1580年)頃から信長の方針は転換する。阿波の三好康長と結んだ信長は、元親に阿波・讃岐の放棄と土佐・南阿波半国への退去を要求し、元親はこれを拒んで両者は対立した。天正10年(1582年)5月、信長は三男・信孝を総大将とする四国攻めを発し、軍は6月初旬に堺から渡海する手筈だった。だが6月2日の本能寺の変によって四国攻めは中止される。取次を務めた光秀の面目が四国政策の転換で失われたことを、本能寺の変の動機の一つに挙げる説(四国説)もある。
- 直江兼続直江景綱の娘・お船の婿養子となり、直江家の名跡と家督を相続(直江家の家督相続)
明智光秀織田信長本能寺の変▼
天正10年(1582年)6月2日、家臣・明智光秀が京都本能寺の織田信長を急襲し、信長を自害に追い込んだ戦国史上最大の謀反事件。
史実
6月1日夜、信長は中国攻めの羽柴秀吉支援のため京都本能寺に宿泊。供は森蘭丸ら近習と、わずか百余名の手勢のみだった。同日、光秀は丹波亀山城(かめやまじょう)を出陣して『敵は本能寺にあり』と命じ、1万3千の軍勢を京へ向けた。6月2日未明、本能寺は明智軍に包囲される。信長は弓と槍で防戦したが衆寡敵せず、寺に火を放って自害した。享年49。同時に二条新御所の織田信忠(嫡男)も自刃した。光秀の動機は怨恨説・野望説・黒幕説など諸説あり、戦国最大の謎とされる。本能寺の変により織田政権は瓦解し、その後の天下取りは中国大返しから山崎の戦いを制した羽柴秀吉が引き継ぐこととなった。
明智光秀黒田官兵衛豊臣秀吉中国大返しと山崎の戦い▼
本能寺の変の急報を受けた羽柴秀吉が、備中高松城から京近郊まで約230kmをわずか10日で踏破した強行軍と、その直後に明智光秀を破った山崎の戦い。
史実
天正10年(1582年)6月、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めで包囲し、毛利氏と対陣していた。6月3日深夜、京都本能寺で信長が明智光秀に討たれたとの急報が秀吉のもとへ届く。秀吉は密使を捕らえて毛利方への情報遮断を図り、6月4日には安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の仲介で清水宗治(しみず・むねはる)の自刃を条件に毛利と和睦。6月6日に高松を撤して京へ向け転進し、姫路城で軍装を整えた後、6月12日には摂津富田に到達した。約230kmを10日で踏破するこの強行軍は『中国大返し』と呼ばれる。途中、池田恒興(いけだ・つねおき)・中川清秀(なかがわ・きよひで)・高山右近(たかやま・うこん)らが合流し、軍勢は4万に膨れ上がった。6月13日、山崎の地で明智光秀軍1万6千と激突し、秀吉軍は天王山(てんのうざん)を制圧して光秀軍を撃破。光秀は坂本城へ落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)の竹藪で土民の襲撃に遭い命を落とした。本能寺の変からわずか11日後の決着であり、秀吉はこの勝利で信長の後継者としての地位を確立、織田家中の主導権を握る出発点となった。
徳川家康伊賀越え▼
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死。堺に滞在していた家康は明智光秀の追手や一揆勢から逃れるため、伊賀の山中を越えて三河へ帰還した。
史実
1582年6月2日未明、明智光秀が京都本能寺で織田信長を急襲し、信長は自害した。当時、徳川家康は信長への安土饗応の答礼として堺を遊覧中であった。供は本多忠勝(ほんだ・ただかつ)・酒井忠次(さかい・ただつぐ)・井伊直政(いい・なおまさ)・服部半蔵(はっとり・はんぞう)ら30余名のみ。京都への上洛途中に変報を受けた家康は、自害(殉死)も口にしたが本多忠勝らに諫止され、三河帰還を決意した。一行は飯盛山(いいもりやま)・宇治田原(うじたわら)・信楽(しがらき)を経由し、伊賀の山中を抜けて伊勢白子(しろこ)から海路で三河に戻った。経路では土民一揆や落武者狩りに襲撃される危険があったが、伊賀同心であった服部半蔵が現地の伊賀者・甲賀者を動員し、一行を護衛した。家康はこの逃避行を生涯「神君伊賀越え(いがごえ)」と呼んで自らの最大の危機の一つに数えた。三河帰還後、家康は明智光秀討伐のため出陣準備をしたが、その間に羽柴秀吉が中国大返しから明智を山崎で破り、家康の出番はなくなった。これ以降、織田家臣団の力学は秀吉に集約されていく。
- 明智光秀山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れる
- 明智光秀坂本城へ落ち延びる途中、小栗栖で落ち武者狩りに遭い落命(享年55)
- 織田信長本能寺にて自刃(享年49)
- 真田昌幸武田氏滅亡。織田・北条・徳川・上杉の間を渡り歩いて独立を保つ
- 豊臣秀吉関白に就任し、豊臣政権の当主として天下を掌握。同年中に四国を平定
真田昌幸第一次上田合戦▼
天正13年(1585年)、真田昌幸がわずかな兵で上田城に拠り、沼田(ぬまた)領をめぐって攻め寄せた徳川の大軍を撃退した戦い。
史実
1585年、真田昌幸は徳川家康に従っていたが、家康が北条氏との和睦の条件として真田の沼田(ぬまた)領を北条へ引き渡すよう命じると、昌幸はこれを拒んで徳川から離反し、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)を頼った。怒った家康は約7000の軍を上田へ差し向けたが、昌幸は2000ほどの寡兵で上田城に拠り、城下や街道に敵を誘い込んで伏兵と鉄砲で痛撃を与え、徳川軍を撃退した。この勝利で昌幸の知略は天下に知られ、上田城は容易に落ちない堅城としての名を得た。沼田領をめぐる徳川との対立は、のちの小田原征伐に際して秀吉の裁定で一応の決着をみるが、真田が徳川の大軍に屈しなかったこの戦いは、15年後の第二次上田合戦の前史となった。
- 伊達政宗人取橋の戦いで佐竹・蘆名連合軍と激戦
- 石田三成堺奉行に任命される
- 真田幸村上杉景勝のもとへ人質に出される(真田の家督は兄・信幸が継ぐ)
- 豊臣秀長四国平定の総大将として長宗我部元親を降す。大和・紀伊・和泉100万石を得て大和大納言となる
豊臣秀長根白坂の戦い▼
天正15年(1587年)、九州征伐において豊臣秀長が率いる軍が、日向(ひゅうが)の根白坂(ねじろざか)で島津軍の夜襲を撃退し、九州平定を決定づけた戦い。
史実
1587年、豊臣秀吉は20万を超える大軍で九州の島津氏を攻めた。弟・秀長は日向(ひゅうが)方面軍の総大将として南下し、島津義久(しまづ・よしひさ)・義弘らの軍と対峙した。4月17日深夜、島津方は秀長軍が築いた根白坂(ねじろざか)の付城(つけじろ)に決死の夜襲をかけたが、宮部継潤(みやべ・けいじゅん)らが守る陣は持ちこたえ、藤堂高虎(とうどう・たかとら)・宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)らの援軍も加わって島津勢を撃退した。島津方はこの敗北で組織的な抵抗の力を失い、まもなく当主・島津義久は剃髪して秀吉に降伏、九州平定が完成した。秀長は軍事の総大将としてだけでなく、降伏交渉や戦後の九州仕置の調整役としても手腕を発揮した。温厚で人望厚い秀長の存在は、降った島津をはじめ諸大名を豊臣政権につなぎとめる要となっていた。
- 黒田官兵衛九州平定の功などにより豊前中津に封じられる
- 豊臣秀吉九州を平定
伊達政宗摺上原の戦い▼
天正17年(1589年)、伊達政宗が蘆名義広(あしな・よしひろ)を破り、南奥州の覇権を確立した合戦。
史実
蘆名(あしな)氏は戦国大名として陸奥南部を支配する名門であったが、当主が幼く、家中は親伊達派と親佐竹派に分裂していた。1589年6月5日、磐梯山西麓の摺上原(すりあげはら)で両軍は激突。当初は西風を背にした蘆名軍が優勢だったが、戦闘の途中で風向きが東風に変わり、戦況は逆転。さらに蘆名家中の離反者が続出し、蘆名軍は総崩れとなった。当主・蘆名義広(あしな・よしひろ)は実家の佐竹氏のもとへ逃れ、戦国大名としての蘆名氏は滅亡。政宗はこの勝利によって会津・仙道・岩代を一気に手中に収め、南奥州の覇者となった。当時22歳。なお、この戦いの直後、豊臣秀吉の天下統一が急速に進み、政宗の独立した版図はわずか1年で秀吉の前に屈することとなる。
- 黒田官兵衛家督を子・長政に譲って隠居し、如水と号す
- 大谷吉継敦賀5万石を与えられ、敦賀城主となる
伊達政宗小田原征伐への遅参▼
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に伊達政宗が遅参し、白装束で秀吉に謁見した事件。
史実
秀吉は1590年3月から関東の北条氏討伐のため小田原を包囲し、全国の大名に参陣を命じた。伊達政宗は摺上原(すりあげはら)の戦いで南奥州を制覇したばかりで、北条氏とは姻戚関係にもあり、参陣の判断に迷った。家中も親秀吉派と反秀吉派で分裂したが、最終的に政宗は5月になって小田原へ向かうことを決断。しかし参陣は他の大名から大幅に遅れ、6月5日に小田原近郊の底倉(そこくら)に到着した。秀吉は政宗を3日間放置した後、面会を許した。政宗は死を覚悟して白装束(死装束)で謁見し、命乞いをしたという有名な逸話が残る。秀吉は『もう一日参陣が遅れていれば、首が飛んでいた』と語ったとされる。政宗は会津を没収されたが本領は安堵され、伊達家の存続が決まった。これにより政宗は秀吉政権下の一大名として組み込まれ、独立した覇者としての道は閉ざされた。
- 石田三成小田原征伐に参加、忍城水攻め
- 豊臣秀吉小田原征伐で北条氏を降し、天下統一を完成
- 徳川家康関東に移封、江戸を本拠地とする
豊臣秀長秀長の死と豊臣政権▼
天正19年(1591年)、豊臣政権の補佐役・調整役として兄秀吉を支えた大和大納言(だいなごん)・豊臣秀長が病没した。政権の重しを失った豊臣家は、以後さまざまな動揺に見舞われていく。
史実
秀長は秀吉の弟として軍事・行政・諸大名との調整のすべてを担い、「内々の儀は宗易(千利休(せんのりきゅう))、公儀の事は宰相(秀長)に」と言われるほど豊臣政権の要であった。温厚篤実な人柄で諸大名の信頼も厚く、専横に走りがちな秀吉と諸将との間を取り持つ緩衝役を果たしていた。しかし天正19年1月、病のため大和郡山(やまとこおりやま)城で没した(享年52)。その死の直後から、千利休の切腹(同年2月)、朝鮮出兵構想の本格化、関白(かんぱく)秀次(ひでつぐ)の悲劇(1595年)など、豊臣政権の歯止めを失ったかのような出来事が相次ぐ。後世、「秀長があと十年生きていれば豊臣の天下は続いた」と惜しまれ、補佐役・調整役の重要性を象徴する人物として語られる。
- 豊臣秀長大和郡山城で病没(享年52)
- 伊達政宗葛西大崎一揆扇動の疑いで秀吉に弁明
- 石田三成佐和山城主となり、石田家の家督を立てて独立した所領を得る(19万石)
大谷吉継豊臣秀吉朝鮮出兵(文禄・慶長の役)▼
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、明国征服を目指して2度にわたり朝鮮半島へ大軍を送った戦役。秀吉死去で撤兵となり、豊臣政権弱体化と関ヶ原への布石となった。
史実
天正18年(1590年)の小田原征伐で天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、視線を海外へ向けた。文禄元年(1592年)4月、肥前名護屋(なごや)に本陣を構え、加藤清正(かとう・きよまさ)・小西行長(こにし・ゆきなが)ら9軍合計約16万の兵を朝鮮半島へ渡海させた(文禄の役(ぶんろくのえき))。緒戦は破竹の勢いで、5月には漢城(現ソウル)、6月には平壌(へいじょう)を占領した。しかし明国の援軍参戦と、李舜臣(り・しゅんしん)率いる朝鮮水軍に補給線を断たれ戦線は膠着する。1593年からは小西行長・沈惟敬(しん・いけい)らによる明との和平交渉が行われたが、双方の認識に大きな齟齬があり、1596年に交渉は決裂。秀吉は慶長2年(1597年)に再び大軍を派遣した(慶長の役(けいちょうのえき))。だが朝鮮南部での消耗戦が続く中、慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は伏見(ふしみ)城で病没。享年62。遺命を受けた五大老(ごたいろう)は撤兵を決定し、同年11月までに在朝日本軍は帰国した。この戦役は朝鮮半島に甚大な被害を与えると同時に、出兵諸将の対立(文治派の石田三成と武断派の加藤清正・福島正則(ふくしま・まさのり)ら)を生み、西国大名の財政疲弊を招いた。秀吉死後わずか2年後の関ヶ原の戦いの布石となった、豊臣政権崩壊の遠因である。
- 豊臣秀吉嫡子・秀頼が誕生
- 真田幸村豊臣秀吉に仕え、左衛門佐に叙任されて一個の武将として遇される
- 豊臣秀吉慶長の役、再度の朝鮮出兵
石田三成七将襲撃事件▼
慶長4年(1599年)閏3月、加藤清正(かとう・きよまさ)・福島正則(ふくしま・まさのり)ら武断派7将が、文治派の石田三成を襲撃しようとした事件。
史実
事件の背景には、朝鮮出兵での三成の査察活動に対する武断派諸将の積年の恨みがあった。前日の閏3月3日に武断派と文治派の対立を抑えていた前田利家が死去したことで、抑止力が失われ、7将(加藤清正(かとう・きよまさ)・福島正則(ふくしま・まさのり)・黒田長政(くろだ・ながまさ)・細川忠興(ほそかわ・ただおき)・浅野幸長(あさの・よしなが)・池田輝政(いけだ・てるまさ)・加藤嘉明(かとう・よしあきら))が動き出した。三成は事前に察知して大坂の屋敷を脱し、皮肉にも最大の政敵である徳川家康の伏見(ふしみ)屋敷に駆け込んだ。家康は7将を呼び出して仲裁し、三成の命を救う代わりに、五奉行(ごぶぎょう)職からの引退と佐和山城への蟄居を命じた。武断派の怒りを鎮め政敵を表舞台から消し、自らは「政権の調停者」としての地位を確立した家康にとって、最良の結末だった。三成は救われたが、政治家としては事実上失脚。これが翌慶長5年の関ケ原の戦いへ直接つながる伏線となった。
- 徳川家康七将襲撃事件で三成を匿う
直江兼続直江状の送付▼
慶長5年(1600年)、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の執政・直江兼続(なおえ・かねつぐ)が徳川家康の弾劾に対し、毅然たる反論を送ったとされる出来事。
史実
豊臣秀吉の死後、五大老(ごたいろう)の筆頭である徳川家康は権力を急速に掌握しつつあった。上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)は会津移封後、領内の新城(神指城(こうざしじょう))の築城や道路の整備、牢人の召し抱えなど軍備増強を進めていたが、これが家康から謀反の疑いとして糾問される。家康の使者・西笑承兌(さいしょう・じょうたい)を通じて上洛と釈明を求められた執政・直江兼続(なおえ・かねつぐ)は、これに対して返書(いわゆる直江状(なおえじょう))を送付した。その内容は、景勝の忠義を主張しつつ、家康側の理不尽な要求や疑念を理路整然と、かつ挑戦的に論破するものであった。これを受け激怒した家康は会津征伐を決定。徳川軍が東下する中で石田三成らが大坂で挙兵し、天下分け目の関ヶ原の戦いへと歴史が大きく動くこととなった。
真田昌幸犬伏の別れ▼
慶長5年(1600年)、関ヶ原を前に下野・犬伏(いぬぶし)で、真田昌幸・信幸(信之)・信繁(幸村)の父子が去就を談合し、真田家を東西に分けることを決めた評議。
史実
1600年、会津の上杉征伐に従軍していた真田父子のもとに、石田三成挙兵の報が届いた。下野・犬伏(いぬぶし)の陣で、昌幸・長男信幸・次男信繁は今後の去就を談合する。結論は、一族を東西に分けることだった。長男・信幸は妻が徳川重臣・本多忠勝(ほんだ・ただかつ)の娘であり、徳川方(東軍)に残った。昌幸と次男・信繁は、妻が大谷吉継(おおたに・よしつぐ)の娘であり、また反徳川の立場から西軍についた。これは真田家がどちらが勝っても存続できるよう図った「家の保険」とも、それぞれの信義に基づく選択とも語られる。父子は袂を分かち、昌幸・信繁は上田へ戻って第二次上田合戦で徳川秀忠を足止めし、信幸は東軍として戦った。関ヶ原は東軍が勝利し、昌幸・信繁は九度山(くどやま)へ配流されたが、信幸が真田家の家督と所領を継いで家名を後世へ伝えることになる。
石田三成大谷吉継徳川家康関ケ原の戦い▼
慶長5年(1600年)、美濃国関ケ原で東軍(徳川家康)と西軍(石田三成ら)が激突した、天下分け目の合戦。
史実
9月15日早朝、霧の中で開戦。当初は西軍が地形的に優位で戦況は一進一退だったが、家康の調略を受けていた小早川秀秋が松尾山から東軍に寝返り、大谷吉継(おおたに・よしつぐ)隊を急襲。これを契機に脇坂安治(わきさか・やすはる)・朽木元綱(くつき・もとつな)らも東軍側で動き、西軍は挟撃されて壊滅した。戦闘はわずか半日で決着。三成は伊吹山(いぶきやま)中に逃れたものの数日後に捕縛され、京の六条河原(ろくじょうがわら)で処刑された。この戦いにより家康は天下の実権を握り、3年後の慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開く。一方、毛利・上杉・宇喜多らの大大名は領地を大きく削られ、豊臣家は摂津・河内・和泉の60万石余の一大名へと転落した。
黒田官兵衛石垣原の戦いと九州制圧▼
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いと並行して、隠居していた黒田如水(官兵衛)が豊前(ぶぜん)中津(なかつ)で急遽軍を起こし、豊後(ぶんご)・石垣原(いしがきばる)で西軍方の大友義統(おおとも・よしむね)を破って九州の制圧に乗り出した戦い。『関ヶ原が長引けば天下を狙った』という如水(じょすい)の野望伝説で名高い。
史実
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際し、黒田如水(官兵衛)は豊前(ぶぜん)中津(なかつ)に隠居していたが、嫡子・長政は東軍主力として徳川家康に従い東へ出陣していた。如水(じょすい)は、長く蓄えた金銀を惜しみなく放出して浪人や農民を募り、急ごしらえの軍を編成する。そして旧領回復を狙って西軍方として豊後(ぶんご)へ侵攻してきた大友義統(おおとも・よしむね)を、慶長5年9月13日、石垣原(現・大分県別府市)で迎え撃って破った。如水はさらに九州各地の西軍方の城を攻略し、加藤清正(かとう・きよまさ)らと連携して九州をほぼ席巻する勢いを見せる。その真意については、東軍に貢献するためとも、関ヶ原が長期化した隙に自ら天下を狙ったとも諸説あり、『もし関ヶ原が長引いていれば、九州を平定して中央へ攻め上る腹であった』という逸話が広く知られる。だが関ヶ原本戦がわずか一日で東軍の勝利に終わったため、如水の九州での戦いは大勢を決する前に意味を失い、家康の停戦命令により如水は矛を収めた。嫡子・長政の関ヶ原での大功もあり、黒田家は筑前福岡52万石を得る。如水の野望伝説は、戦国乱世の最後を飾る逸話として語り継がれている。
直江兼続長谷堂城の戦い▼
慶長5年(1600年)9月、石田三成らの挙兵に連動して上杉軍が最上領へ侵攻し、長谷堂城(はせどうじょう)を巡って繰り広げられた戦い。
史実
会津征伐のために東下した徳川家康が、石田三成挙兵の報を受けて小山から引き返した後、会津の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)・直江兼続(なおえ・かねつぐ)は西軍に呼応する形で、隣国の東軍勢力である山形・最上義光(もがみ・よしあき)への侵攻を決定した。直江兼続率いる上杉軍主力は最上領へ侵入し、畑谷城(はたやじょう)を攻略した後、長谷堂城(はせどうじょう)を包囲した。最上軍は城将・志村光安(しむら・みつやす)を中心に強固に抵抗し、東軍の伊達政宗からの援軍(留守政景(るす・まさかげ))も加わって戦況は膠着した。9月29日、関ヶ原の戦いにおいて西軍が壊滅したとの報が届くと、上杉軍は一転して敵地に取り残される危機に陥った。兼続は直ちに撤退を決意。最上・伊達連合軍の追撃が激しく迫る中、自ら殿軍(しんがり)に立ち、前田利益(まえだ・とします)らと共に精妙な退却戦を指揮して、主力を会津へ無事に退却させることに成功した。
真田幸村第二次上田合戦▼
慶長5年(1600年)、関ヶ原へ向かう徳川秀忠の大軍を、真田昌幸・幸村父子がわずかな兵で上田城に引きつけ、本戦への遅参を招いた戦い。
史実
関ヶ原の戦いに際し、真田家は父・昌幸と次男・幸村(信繁)が西軍、長男・信幸(信之)が東軍に分かれた(犬伏(いぬぶし)の別れ)。中山道を進む徳川秀忠率いる約3万8千の大軍は、上田城に拠る昌幸・幸村父子(数千の兵)を攻めたが、巧みな防戦と挑発に手こずり、城を攻略できないまま貴重な日数を空費した。秀忠軍は関ヶ原本戦に間に合わず、これは家康を大いに憤らせたと伝わる。戦後、本来は死罪に処されるところ、東軍についた信幸とその舅・本多忠勝(ほんだ・ただかつ)らの助命嘆願により、昌幸・幸村父子は高野山麓の九度山(くどやま)への配流に減じられた。寡兵で大軍を翻弄したこの戦いは真田の武名を高め、後年の大坂の陣における幸村の活躍の前史となった。
- 伊達政宗関ヶ原で東軍につき、白石城を攻略
- 石田三成敗戦後に斬首・処刑(享年41)
- 直江兼続最上領へ侵攻して長谷堂城を包囲するも、関ヶ原の敗報を受け撤退戦を指揮(長谷堂城の戦い)
- 大谷吉継関ヶ原で四将の寝返りにより敗れ、自刃(享年42)
- 真田昌幸第二次上田合戦で徳川秀忠の大軍を上田城に足止めする
- 真田昌幸関ヶ原後、高野山麓の九度山に配流される
- 真田幸村関ヶ原後、罪を減じられ高野山麓の九度山に配流される
- 徳川家康征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く
江戸前期
- 黒田官兵衛京都伏見で病没(享年59)
- 徳川家康将軍を秀忠に譲り、大御所として駿府へ
- 真田昌幸九度山で病没(享年65)
- 伊達政宗慶長遣欧使節(支倉常長)を派遣
真田幸村真田丸の戦い▼
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で、真田幸村(信繁)が大坂城の南に築いた出城(でじろ)「真田丸」に徳川方を誘い込み、大損害を与えた戦い。
史実
1614年、方広寺(ほうこうじ)鐘銘(しょうめい)事件を機に徳川家康が大坂の豊臣家へ兵を向けると、幸村(信繁)は配流先の九度山(くどやま)を脱して大坂城に入った。彼は守りの手薄な城の南面に半円状の出城(でじろ)「真田丸」を築き、攻め寄せる前田・井伊・松平らの徳川勢を巧みに引きつけ、弓と鉄砲で大損害を与えた。徳川方は力攻めの不利を悟って和睦に転じたが、講和の条件として大坂城の外堀が埋め立てられ、真田丸も取り壊されて城の防御力は大きく損なわれた。翌1615年の夏の陣で豊臣方は裸城同然の状態で決戦を強いられ、幸村は家康本陣への突撃ののち討死する。冬の陣での真田丸の奮戦は、寡兵で大軍を翻弄した名采配として後世に語り継がれた。
徳川家康大坂の陣▼
慶長19年〜元和元年(1614〜1615年)、徳川家康が豊臣家を完全に滅ぼし、徳川の天下を盤石にした最後の戦。
史実
1614年、家康は方広寺(ほうこうじ)鐘銘(しょうめい)事件(『国家安康(こっかあんこう)・君臣豊楽(くんしんほうらく)』の銘文)を口実に豊臣家への武力行使を決断。同年10〜12月の冬の陣では大坂城の堀の深さに苦戦したが、和睦条件として外堀埋立てを実行し、城の防御力を奪った。翌1615年5月の夏の陣では、再起を期した豊臣方が出戦するも徳川軍に各地で敗退。5月7日、真田幸村が決死の本陣突撃を敢行し、家康本陣の馬印(うまじるし)が倒されたとも伝わる。家康はこの時自害を覚悟したという(諸説あり)。突撃は紙一重で食い止められ、同日大坂城は炎上、翌5月8日に豊臣秀頼と母・淀殿(よどどの)は山里曲輪(やまざとくるわ)で自刃。豊臣家は滅亡した。家康74歳での最後の大戦であり、戦国時代の終焉を象徴する事件となった。翌1616年、家康は駿府城で没した。
- 真田幸村大坂夏の陣で家康本陣へ決死の突撃を敢行
- 真田幸村安居神社で討死(享年49)
- 徳川家康駿府城で死去(享年74)
- 直江兼続江戸の鱗屋敷にて病没(享年60)
- 伊達政宗江戸で死去(享年70)