伊達政宗

だて まさむね

1567年 〜 1636

陸奥の戦国大名。18歳で家督を継ぎ、わずか数年で南奥州を制覇した若き覇者。幼少期に右目を失明したことから『独眼竜(どくがんりゅう)』と呼ばれた。豊臣秀吉の天下統一に屈服し、関ヶ原では東軍につき、後に仙台藩62万石の藩祖となる。『あと10年早く生まれていれば天下を取れた』と評されるほどの野心と才覚を持ち、晩年には独自にスペインへ慶長遣欧使節を派遣するなど、戦国時代を象徴する英雄のひとり。

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年表

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  • 1567出羽国米沢に伊達輝宗の長男として誕生
  • 1584家督を継承(17歳)
  • 1585人取橋の戦いで佐竹・蘆名連合軍と激戦
  • 1589摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし、南奥州を制覇

    天正17年(1589年)、伊達政宗が蘆名義広(あしな・よしひろ)を破り、南奥州の覇権を確立した合戦。

    史実

    蘆名(あしな)氏は戦国大名として陸奥南部を支配する名門であったが、当主が幼く、家中は親伊達派と親佐竹派に分裂していた。1589年6月5日、磐梯山西麓の摺上原(すりあげはら)で両軍は激突。当初は西風を背にした蘆名軍が優勢だったが、戦闘の途中で風向きが東風に変わり、戦況は逆転。さらに蘆名家中の離反者が続出し、蘆名軍は総崩れとなった。当主・蘆名義広(あしな・よしひろ)は実家の佐竹氏のもとへ逃れ、戦国大名としての蘆名氏は滅亡。政宗はこの勝利によって会津・仙道・岩代を一気に手中に収め、南奥州の覇者となった。当時22歳。なお、この戦いの直後、豊臣秀吉の天下統一が急速に進み、政宗の独立した版図はわずか1年で秀吉の前に屈することとなる。

  • 1590小田原征伐に遅参、白装束で秀吉に謁見

    天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に伊達政宗が遅参し、白装束で秀吉に謁見した事件。

    史実

    秀吉は1590年3月から関東の北条氏討伐のため小田原を包囲し、全国の大名に参陣を命じた。伊達政宗は摺上原(すりあげはら)の戦いで南奥州を制覇したばかりで、北条氏とは姻戚関係にもあり、参陣の判断に迷った。家中も親秀吉派と反秀吉派で分裂したが、最終的に政宗は5月になって小田原へ向かうことを決断。しかし参陣は他の大名から大幅に遅れ、6月5日に小田原近郊の底倉(そこくら)に到着した。秀吉は政宗を3日間放置した後、面会を許した。政宗は死を覚悟して白装束(死装束)で謁見し、命乞いをしたという有名な逸話が残る。秀吉は『もう一日参陣が遅れていれば、首が飛んでいた』と語ったとされる。政宗は会津を没収されたが本領は安堵され、伊達家の存続が決まった。これにより政宗は秀吉政権下の一大名として組み込まれ、独立した覇者としての道は閉ざされた。

  • 1591葛西大崎一揆扇動の疑いで秀吉に弁明
  • 1600関ヶ原で東軍につき、白石城を攻略
  • 1601仙台に移封、仙台城築城を開始
  • 1613慶長遣欧使節(支倉常長)を派遣
  • 1636江戸で死去(享年70)
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