人物一覧
読み仮名の五十音順で並んでいます。
14人
明智光秀
あけち みつひで
1528年 〜 1582年
美濃出身の武将。出自には不明な点が多く、朝倉義景・足利義昭を経て織田信長に仕えた。連歌や茶湯に通じた教養人でありながら、丹波平定で武功を重ね、近江坂本・丹波亀山を領する織田家屈指の重臣にのし上がる。天正10年(1582年)、京都本能寺に主君・信長を急襲して討ち取り、一度は天下に最も近い場所に立った。だが羽柴秀吉の『中国大返し』の前に山崎の戦いで敗れ、落ち延びる途中で命を落とす。本能寺からわずか十数日の天下は『三日天下』と呼ばれ、その謀反の動機は今なお戦国最大の謎とされる。生年には1516年説など諸説がある。
石田三成
いしだ みつなり
1560年 〜 1600年
近江国坂田郡石田村に生まれ、若くして豊臣秀吉に仕えた文治派の武将。堺奉行などの要職を歴任し、卓越した行政手腕で五奉行の一人として豊臣政権の政務を統括した。佐和山城主として近江に所領を得る一方、加藤清正ら武断派との対立を深めていく。秀吉の死後は徳川家康と対立し、関ケ原の戦いで西軍の実質的な指揮を執るも敗北。捕らえられて処刑された。義を重んじ、豊臣家への忠節に殉じた生涯として語られることが多い。
大谷吉継
おおたに よしつぐ
1559年 〜 1600年
豊臣秀吉に仕えた吏僚にして武将。行政・財政・兵站に卓越し、秀吉から「百万の兵を指揮させてみたい」と評されたと伝わる。敦賀5万石の城主となり、文禄の役では船奉行・兵站総奉行として大軍の補給を支えた。晩年は病(重い患い)により視力を失うほどであったが、務めを果たし続けた。盟友・石田三成との友情で名高く、関ヶ原の戦いでは西軍が不利と見抜きながらも、義によって三成に味方した。小早川秀秋の裏切りを予見して備えたが、頼みの脇坂安治ら四将までもが寝返って隊は壊滅し、自刃した。義と友情に殉じた武将として後世に語り継がれる。生年・出自には諸説があり、本サイトでは享年42となる1559年説を採る。
織田信長
おだ のぶなが
1534年 〜 1582年
尾張の戦国大名。青年期は『うつけ』と呼ばれたが、桶狭間で今川義元を討って覇道を歩み始める。足利義昭を奉じて上洛、比叡山焼き討ちや長篠の戦いを経て天下統一を目前にした。安土城を築き、革新的な政策で戦国時代を終わらせかけたが、家臣・明智光秀の謀反『本能寺の変』で49歳で生涯を閉じた。『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』と評される、戦国時代を最も激しく駆け抜けた革命児。
黒田官兵衛
くろだ かんべえ
1546年 〜 1604年
播磨出身の知将。実名は孝高、出家後は如水と号す。小寺氏の家老から織田信長に臣従を勧め、羽柴秀吉の軍師として頭角を現した。荒木村重の説得に赴いて有岡城に約一年幽閉され、九死に一生を得た苦難でも知られる。本能寺の変の直後、秀吉に天下取りの好機を進言し、中国大返しと山崎の勝利を導いた立役者であり、竹中半兵衛とともに『両兵衛』と並び称される。関ヶ原の戦いの際には、隠居の身ながら豊前中津で自ら軍を起こし、石垣原で大友義統を破って九州を席巻、『もし関ヶ原が長引いていれば天下を狙った』という野望伝説を残した。キリシタン大名でもあり、その深謀は戦国随一とされる。
真田昌幸
さなだ まさゆき
1547年 〜 1611年
真田幸隆の三男。はじめ武田信玄に近習として仕え、武藤家を継いで武藤喜兵衛と名乗った。1575年の長篠の戦いで兄・信綱と昌輝が戦死したため、真田家の家督を継ぐ。武田氏滅亡後は、織田・北条・徳川・上杉といった大勢力の間を巧みに渡り歩き、小領主ながら独立を保った。その変わり身の早さと知略から「表裏比興の者」と評される。上田城を築き、第一次上田合戦(1585)では徳川の大軍を寡兵で撃退。関ヶ原(1600)に際しては犬伏で一族を東西に分け、自らは次男・信繁(幸村)とともに西軍につき、第二次上田合戦で徳川秀忠の大軍を足止めした。戦後は高野山麓の九度山へ配流され、再起を期しながら1611年に没した。戦国屈指の知将として名高い。
真田幸村
さなだ ゆきむら
1567年 〜 1615年
真田昌幸の次男。実名は信繁で、「幸村」は後世の軍記・講談に由来する名である。次男のため真田の家督は兄・信幸(信之)が継ぎ、信繁は上杉・豊臣への人質を経て豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原の戦いでは父とともに西軍につき、第二次上田合戦で徳川秀忠の大軍を上田城に引きつけて本戦への遅参を招いた。戦後は高野山麓の九度山に長く配流されたが、1614年の大坂の陣で豊臣方に身を投じ、出城「真田丸」を築いて徳川の大軍を翻弄。翌1615年の夏の陣では家康本陣に決死の突撃を敢行し、安居神社で討死した。「真田日本一の兵」と讃えられ、戦国時代の掉尾を飾る武将として今も語り継がれる。本サイトでは知名度を優先し、本文も含めて「幸村」表記を用いる。
武田信玄
たけだ しんげん
1521年 〜 1573年
甲斐の戦国大名。父・信虎を駿河へ追放して家督を継ぎ、信濃へ進出して領国を大きく広げた。越後の上杉謙信とは川中島で五度にわたり対峙し、なかでも武田信繁や山本勘助を失った第四次川中島の戦いで名高い。駿河侵攻によって今川・北条との三国同盟は崩れたが、版図はさらに拡大した。晩年には西上作戦を起こして上洛を目指し、三方ヶ原で徳川家康を撃破するも、進軍の途中で病に倒れて没した。「孫子の旗(風林火山)」で名高い、戦国時代を代表する戦略家のひとり。
竹中半兵衛
たけなか はんべえ
1544年 〜 1579年
美濃の知将。実名は重治。若くして美濃斎藤家に仕えたが、暗愚な主君・斎藤龍興を諫めるため、わずか十数名でその居城・稲葉山城を乗っ取るという奇略を演じ、世を驚かせた。のちに羽柴秀吉が三顧の礼をもって軍師に迎え、黒田官兵衛とともに『両兵衛』と並び称される名参謀となる。中国攻めでは三木城の兵糧攻めを支え、信長の処刑命令に背いて黒田官兵衛の嫡子・松寿丸(のちの黒田長政)を匿い救ったことでも知られる。だが労咳(肺の病)に侵され、三木城攻めの陣中で36歳の若さで世を去った。『今孔明』と称されたその早世は、戦国屈指の惜しまれた死とされる。
伊達政宗
だて まさむね
1567年 〜 1636年
陸奥の戦国大名。18歳で家督を継ぎ、わずか数年で南奥州を制覇した若き覇者。幼少期に右目を失明したことから『独眼竜』と呼ばれた。豊臣秀吉の天下統一に屈服し、関ヶ原では東軍につき、後に仙台藩62万石の藩祖となる。『あと10年早く生まれていれば天下を取れた』と評されるほどの野心と才覚を持ち、晩年には独自にスペインへ慶長遣欧使節を派遣するなど、戦国時代を象徴する英雄のひとり。
徳川家康
とくがわ いえやす
1543年 〜 1616年
三河岡崎の生まれ。今川の人質時代を経て独立、信長と清洲同盟を結ぶ。三方ヶ原で武田信玄に大敗するも生き延び、本能寺の変では伊賀越えで九死に一生を得た。秀吉に臣従して関東に移封、江戸を本拠地とする。秀吉死後は関ヶ原で勝利して天下を握り、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた。晩年には大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を盤石にした。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と評される、忍耐と現実主義の人。
豊臣秀長
とよとみ ひでなが
1540年 〜 1591年
豊臣秀吉の弟。実名は当初「長秀」、のちに「秀長」。農民の出で継ぐべき家督はなく、兄とともに身を起こした。兄を一貫して支える補佐役・調整役として豊臣政権を支え、軍事・行政・諸大名との調整のすべてに手腕を発揮した。1585年の四国平定では総大将を務め、1587年の九州征伐では日向方面軍を率いて根白坂の戦いで島津軍を破った。大和・紀伊・和泉100万石を領し、大和大納言と称される。「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)に」と言われるほど政権の要であったが、1591年に病没。温厚で人望厚い彼の死は豊臣政権の重しが外れる契機となり、その後の動揺の遠因になったとも評される。「秀長が長命であれば豊臣の天下は続いた」とも惜しまれる、補佐役の名手である。
豊臣秀吉
とよとみ ひでよし
1537年 〜 1598年
尾張中村の農民出身。木下藤吉郎として織田信長に仕え、草履取りから一国の主まで駆け上がった戦国一の出世人。本能寺の変では『中国大返し』で京へ取って返し、山崎の戦いで明智光秀を破って信長の後継者となった。賤ヶ岳で柴田勝家を破り、関白・太政大臣となって豊臣姓を授かる。1590年の小田原征伐で天下を統一し、刀狩・太閤検地など秩序立った政策で戦国の幕引きを進めた。だが晩年の二度の朝鮮出兵は失敗に終わり、1598年に伏見城で病没。享年62。豊臣政権はわずか2年後の関ヶ原で揺らぐことになる。
北条早雲
ほうじょう そううん
1456年 〜 1519年
戦国大名の魁(さきがけ)とされる武将。本名は伊勢盛時、出家後は早雲庵宗瑞と号し、生前は「北条」を名乗っていない(北条姓は子・氏綱以降)。室町幕府に仕える伊勢一族の出身で、妹が嫁いだ今川家の家督争いを収めて駿河に地歩を築いた。1493年に伊豆へ討ち入って堀越公方・足利茶々丸を追放し、続いて相模の小田原城を奪取。一代で伊豆・相模に勢力を広げ、五代百年におよぶ後北条氏の礎を築いた。守護でも名門でもない立場から実力で一国を奪った生涯は、下剋上と戦国時代の幕開けを象徴するものとして語られる。生年には1432年説と1456年説があり、本サイトでは近年有力とされる1456年説(享年64)を採る。