織田信長
おだ のぶなが
1534年 〜 1582年
尾張の戦国大名。青年期は『うつけ』と呼ばれたが、桶狭間(おけはざま)で今川義元を討って覇道を歩み始める。足利義昭を奉じて上洛、比叡山焼き討ちや長篠の戦いを経て天下統一を目前にした。安土城を築き、革新的な政策で戦国時代を終わらせかけたが、家臣・明智光秀の謀反『本能寺の変』で49歳で生涯を閉じた。『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』と評される、戦国時代を最も激しく駆け抜けた革命児。
年表
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- 1534尾張国で織田信秀の三男として誕生
- 1551父・信秀の死で家督を相続(17歳)
- 1556稲生の戦いで弟・信行を破る
1560桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る▼
永禄3年(1560年)、尾張の織田信長がわずか3000の兵で2万5千の今川義元軍を急襲し、義元を討ち取った戦国史上屈指の奇襲戦。
史実
5月19日、駿河・遠江・三河を支配する今川義元は、約2万5千の大軍を率いて尾張へ侵攻。鳴海・大高・沓掛(くつかけ)の各城を経由しつつ進軍し、田楽狭間で休息を取っていた。報告を受けた信長は清洲城で戦評定を開いたが多くの家臣は籠城を主張。信長は深夜、敦盛を舞った後に出陣を決断。熱田神宮で戦勝祈願を行い、わずか3000の手勢で善照寺砦に進出した。午後に突如降り出した豪雨に紛れて田楽狭間の今川本陣を急襲。混乱した今川軍を切り崩し、毛利新介が義元の首を取った。当時27歳の信長にとって、この勝利が天下統一への第一歩となった。今川家は当主を失って急速に衰退し、徳川家康(当時松平元康)は今川から独立する道を選ぶこととなる。
- 1567美濃を平定、岐阜と改名し『天下布武』の印を用いる
- 1568足利義昭を奉じて上洛
- 1570金ヶ崎の退き口(浅井長政の裏切り)
- 1571比叡山延暦寺を焼き討ち
- 1573足利義昭を追放、室町幕府滅亡
1575長篠の戦いで武田勝頼の騎馬隊を撃破▼
天正3年(1575年)、織田信長・徳川家康の連合軍が、武田勝頼(たけだ・かつより)の騎馬隊を鉄砲と馬防柵で撃破した戦い。武田家衰退の決定打となった。
史実
5月21日、三河国長篠城を包囲していた武田勝頼(たけだ・かつより)軍1万5千に対し、信長3万・家康8千の連合軍が設楽原に布陣。信長は鉄砲3千丁(諸説あり)を用意し、馬防柵を三重に築いた。武田重臣の山県昌景(やまがた・まさかげ)・馬場信春(ばば・のぶはる)・内藤昌豊(ないとう・まさとよ)らは決戦回避と撤退を進言したが、勝頼はこれを退け突撃を選択。鉄砲の交互射撃と馬防柵に阻まれ、武田の精鋭騎馬隊は壊滅した。この戦いで武田は山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・原昌胤・真田信綱・真田昌輝ら『武田四天王』を含む多くの重臣を失い、騎馬軍団としての武田家は実質的に消滅。1582年の武田家滅亡への道が決定づけられた。鉄砲の集団運用が騎馬戦法を凌駕した戦術革命の象徴として、世界戦史にも名を残す。
- 1576安土城築城を開始
1582本能寺の変で明智光秀に討たれる▼
天正10年(1582年)6月2日、家臣・明智光秀が京都本能寺の織田信長を急襲し、信長を自害に追い込んだ戦国史上最大の謀反事件。
史実
6月1日夜、信長は中国攻めの羽柴秀吉支援のため京都本能寺に宿泊。供は森蘭丸ら近習と、わずか百余名の手勢のみだった。同日、光秀は丹波亀山城(かめやまじょう)を出陣して『敵は本能寺にあり』と命じ、1万3千の軍勢を京へ向けた。6月2日未明、本能寺は明智軍に包囲される。信長は弓と槍で防戦したが衆寡敵せず、寺に火を放って自害した。享年49。同時に二条新御所の織田信忠(嫡男)も自刃した。光秀の動機は怨恨説・野望説・黒幕説など諸説あり、戦国最大の謎とされる。本能寺の変により織田政権は瓦解し、その後の天下取りは中国大返しから山崎の戦いを制した羽柴秀吉が引き継ぐこととなった。
- 1582本能寺にて自刃(享年49)