武田信玄

たけだ しんげん

1521年 〜 1573

甲斐の戦国大名。父・信虎を駿河へ追放して家督を継ぎ、信濃へ進出して領国を大きく広げた。越後の上杉謙信とは川中島で五度にわたり対峙し、なかでも武田信繁(たけだ・のぶしげ)や山本勘助(やまもと・かんすけ)を失った第四次川中島の戦いで名高い。駿河侵攻によって今川・北条との三国同盟は崩れたが、版図はさらに拡大した。晩年には西上作戦を起こして上洛を目指し、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を撃破するも、進軍の途中で病に倒れて没した。「孫子の旗(風林火山(ふうりんかざん))」で名高い、戦国時代を代表する戦略家のひとり。

上部広告

年表

▼ がついた出来事をクリックすると、「もしも」の物語が読めます

  • 1521甲斐の守護・武田信虎の長男として誕生
  • 1541父・信虎を駿河に追放し、家督を継ぐ
  • 1547信濃に進出、志賀城の戦い
  • 1553第一次川中島の戦い(上杉謙信との初対決)
  • 1559出家して『信玄』と号する
  • 1561第四次川中島の戦い。武田信繁・山本勘助が戦死

    永禄4年(1561年)、信濃川中島で武田信玄と上杉謙信が激突した、5度の川中島合戦のうち最大の激戦。

    史実

    9月10日未明、信玄は軍師・山本勘助(やまもと・かんすけ)の進言により『啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)』を発動した。武田勢を二手に分け、別働隊1万2千が妻女山(さいじょさん)の上杉謙信を背後から襲い、八幡原(はちまんぱら)で待ち構える信玄本隊8千で挟撃する作戦だった。しかし謙信は武田陣の炊飯の煙の量から作戦を察知し、夜のうちに密かに山を降りていた。霧が晴れた朝、信玄本陣の前に現れたのは1万3千の上杉主力勢で、武田は予期せぬ急襲を受けた。武田信繁(信玄の弟)、山本勘助、諸角虎定(もろずみ・とらさだ)ら多くの重臣を失う激戦となり、信玄と謙信の一騎打ち伝説もこの混戦から生まれた。午後に別働隊が戻って上杉勢を挟撃すると謙信は越後へ撤退。死傷者は両軍合わせて1万人以上にのぼり、戦術的には上杉の勝利、戦略的には武田の勝利という珍しい結末となった。武田はその後も川中島地域の支配を維持した。

  • 1568駿河侵攻。三国同盟が崩壊
  • 1572西上作戦を開始
  • 1572三方ヶ原で徳川家康を撃破
  • 1573進軍途中、信濃駒場で病没(享年53)

    元亀3年(1572年)、武田信玄が京を目指して開始した遠征。進軍途中で病没し、戦国最大級のifとされる。

    史実

    信玄は2万5千の大軍を率いて10月に甲府を出立。当時、織田信長は浅井・朝倉、本願寺、足利義昭らとの対立で四面楚歌の状況にあり、信玄の西上は信長包囲網の最大の希望だった。12月22日、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を完膚なきまでに撃破。家康はわずかな供回りで浜松城へ逃げ帰り、自らの惨めな姿を絵師に描かせて生涯の戒めとした(『しかみ像(しかみぞう)』)。しかし翌1573年4月12日、進軍途中の信濃駒場(現・長野県下伊那郡阿智村)で信玄は病没した。享年53。死因は肺結核とも胃癌とも言われる(諸説あり)。信玄は『自分の死を3年間秘せよ』と遺言したが、情報は徐々に漏れ、信長は『天下の儀、もはや案ずるに足らず』と喜んだとされる。後継の武田勝頼(たけだ・かつより)は1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、武田家は1582年に滅亡した。

下部広告