明智光秀
あけち みつひで
1528年 〜 1582年
美濃出身の武将。出自には不明な点が多く、朝倉義景・足利義昭を経て織田信長に仕えた。連歌や茶湯に通じた教養人でありながら、丹波平定で武功を重ね、近江坂本・丹波亀山を領する織田家屈指の重臣にのし上がる。天正10年(1582年)、京都本能寺に主君・信長を急襲して討ち取り、一度は天下に最も近い場所に立った。だが羽柴秀吉の『中国大返し』の前に山崎の戦いで敗れ、落ち延びる途中で命を落とす。本能寺からわずか十数日の天下は『三日天下』と呼ばれ、その謀反の動機は今なお戦国最大の謎とされる。生年には1516年説など諸説がある。
if物語で注目したい転換点
もし信長に背いて義昭方についたら。もし黒井城の敗戦で丹波攻略から外されたら。そして本能寺で別の選択をしていたら。光秀の生涯を分けた3つの転換点から、歴史の可能性をたどります。
年表
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- 1528美濃国で誕生(生年には1516年など諸説あり)
- 1566斎藤道三の死後に浪人し、越前の朝倉義景を頼る
- 1568足利義昭と織田信長に仕え、両者の橋渡しを務める
- 1571比叡山焼き討ち後、近江坂本に城と所領を与えられ一城の主となる(独立所領の取得)
1573足利義昭が信長に挙兵する▼
元亀4年(1573年)2月、織田信長との対立を深めていた将軍・足利義昭は、近江の石山・今堅田などに兵を入れ、反信長の姿勢を明確にした。信長は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆らを送り、義昭方の拠点を攻めた。
史実
元亀4年(1573年)2月、足利義昭は武田信玄・浅井長政・朝倉義景らを頼みとして信長に対抗した。信長は義昭に和議を申し入れる一方、柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆に近江の石山・今堅田を攻めさせ、義昭方の拠点を攻略した。光秀は琵琶湖上から今堅田を攻めており、この時点では信長方として義昭と戦っている。4月に両者はいったん和睦したが、義昭は7月に再び挙兵し、敗れて京都を追われた。
- 1575丹波攻略を開始
1576黒井城攻めで波多野秀治に背かれ、光秀が敗走する▼
天正4年(1576年)正月、黒井城を包囲していた明智光秀は、味方していた八上城主・波多野秀治の離反によって形勢を崩した。光秀に従っていた丹波の国衆の多くも黒井城方へ転じ、明智勢は包囲を解いて坂本へ退いた。
史実
天正3年(1575年)、織田信長の命で丹波攻略を進めた明智光秀は、荻野直正(赤井直正)の黒井城を包囲した。翌天正4年(1576年)正月、八上城主・波多野秀治が黒井城方へ寝返り、明智勢は敗退した。敗戦後も光秀は丹波攻略から外れず、天正5年(1577年)ごろから亀山城(かめやまじょう)を攻略拠点として築城・整備し、天正7年(1579年)に八上城・黒井城を攻略して丹波を平定した。
- 1579丹波・丹後を平定し、亀山城を本拠とする
- 1581信長の四国政策転換により、取次を務めた長宗我部元親との関係が悪化する
1582本能寺の変で主君・信長を討つ▼
天正10年(1582年)6月2日、家臣・明智光秀が京都本能寺の織田信長を急襲し、信長を自害に追い込んだ戦国史上最大の謀反事件。
史実
6月1日夜、信長は中国攻めの羽柴秀吉支援のため京都本能寺に宿泊。供は森蘭丸ら近習と、わずか百余名の手勢のみだった。同日、光秀は丹波亀山城(かめやまじょう)を出陣して『敵は本能寺にあり』と命じ、1万3千の軍勢を京へ向けた。6月2日未明、本能寺は明智軍に包囲される。信長は弓と槍で防戦したが衆寡敵せず、寺に火を放って自害した。享年49。同時に二条新御所の織田信忠(嫡男)も自刃した。光秀の動機は怨恨説・野望説・黒幕説など諸説あり、戦国最大の謎とされる。本能寺の変により織田政権は瓦解し、その後の天下取りは中国大返しから山崎の戦いを制した羽柴秀吉が引き継ぐこととなった。
- 1582山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れる
- 1582坂本城へ落ち延びる途中、小栗栖で落ち武者狩りに遭い落命(享年55)