もし宇喜多秀家が家康本陣を突破していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
石田三成は西軍の中心人物でしたが、実際の戦場では多くの武将たちがそれぞれの持ち場で戦っていました。宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)はその中でも西軍の主力を担う重要な武将のひとりです。
この場面で何が起きていた?
関ケ原の戦いでは、ただ兵が多いだけでは勝てません。相手の本陣にどこまで迫れるか、つまり戦いの中心を揺さぶれるかが、大きな勝負どころでした。
史実ではこうだった
関ケ原の戦場で、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)は西軍最大の1万7千の兵を率いていた。その矛先は東軍の猛将・福島正則(ふくしま・まさのり)隊に向けられた。
両軍は正面からぶつかった。宇喜多隊の先鋒を務めたのは明石全登(あかし・てるずみ)率いるキリシタン武士団だ。その練度は高く、福島隊と互角以上に渡り合った。戦場の泥濘の中、槍と鉄砲が交錯し、双方に多くの死傷者が出た。
宇喜多隊は善戦していた。しかし、勝敗を決めたのは前線の戦いではなかった。松尾山から小早川秀秋が裏切り、西軍の側面を突いたのだ。宇喜多隊は正面の福島隊に加え、側面からの攻撃にも晒された。挟撃を受けて陣形は崩壊し、壊滅的な打撃を受けた。
秀家は戦場を辛くも脱出した。薩摩の島津家に匿われた後、最終的に八丈島へ流された。西軍最大の兵力を持ちながら、その力を出し切る前に戦いが終わってしまった。もし裏切りがなく、宇喜多隊が全力を振るい続けていたら、家康の本陣を脅かすことは十分にあり得たとされている。
もしここが変わったら?
もし宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)が家康本陣を突破していたら、東軍は大きく動揺し、関ケ原の流れが西軍に傾いていたかもしれません。
宇喜多の突進――桃配山(ももくばりやま)、揺らぐ
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慶長五年九月十五日、関ケ原の朝霧が薄れ始めたころ、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)は天満山南の陣で兵を前へ出した。西軍最大の一万七千。備前・美作から集められたその大軍は、東軍の福島正則(ふくしま・まさのり)隊と真正面からぶつかった。
福島隊は強かった。先鋒は粘り、鉄砲はよく撃ち、槍は崩れない。だが、宇喜多勢は数と圧で押した。明石全登(あかし・てるずみ)の先鋒は陣形を乱さず、前列が倒れれば後列が詰める。泥と血で足元が滑る中でも、槍衾(やりぶすま)は少しずつ福島隊を押し下げた。
三成は笹尾山(ささおやま)からその動きを見ていた。宇喜多が福島を破れば、東軍中央に穴が開く。だが、その間に松尾山の小早川秀秋が動けば、西軍の側面が崩れる。勝機と危機は、同じ瞬間に近づいていた。
午前半ば、福島隊の旗が大きく揺れた。宇喜多勢はそこを逃さなかった。明石隊が正面を割り、戸川、花房らの備えが左右から圧をかける。福島正則は何度も立て直そうとしたが、兵は押し戻され、東軍中央に隙が生まれた。
その向こうに、桃配山(ももくばりやま)の徳川本陣が見えた。金扇の馬印(うまじるし)が、霧の名残と硝煙の中で鈍く光っている。
宇喜多秀家は追撃を命じた。狙いは福島の首ではない。家康の本陣である。西軍最大の兵力を、戦場の中心へ叩き込む。その判断は早かった。
徳川旗本はよく防いだ。三河以来の譜代たちが馬印の前に壁を作り、本多忠勝(ほんだ・ただかつ)、井伊直政(いい・なおまさ)らが乱れた線をつなごうとした。だが、宇喜多勢の突進は勢いを失わなかった。明石全登の兵が本陣脇へ食い込み、徳川の馬印は一時、後方へ下げられた。
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家康は桃配山で退却を決めた。討たれたわけではない。だが、馬印をその場に置き続ければ、東軍全体が本陣防衛に吸い寄せられて崩れる。家康は清洲方面への組織的撤退を命じ、井伊直政と本多忠勝に殿を任せた。
東軍は総崩れにはならなかった。しかし、関ケ原の戦場は西軍のものとなった。福島隊は大きく損耗し、黒田、細川、加藤らも家康の退却に合わせて後方へ下がった。小早川秀秋は松尾山で動けなかった。家康本陣が揺らいだことで、寝返りの時機を失ったのである。
夕刻、三成の陣には勝利の報が集まった。宇喜多秀家は血に汚れた陣羽織のまま、桃配山の方角を見ていた。家康は逃げた。戦場には勝った。だが、天下はまだ取れていない。
その夜、三成は大坂へ急使を出した。毛利輝元には総大将としての出陣と上洛を求め、豊臣秀頼の名で諸大名に家康追討を命じる文案を整えさせた。宇喜多秀家には追撃準備を、小早川秀秋には動かなかった理由を問う使者を、島津義弘(しまづ・よしひろ)には翌日の軍議への出席を求めた。
一方、家康は清洲へ退いた。関東二百五十万石の基盤は残り、中山道には秀忠の大軍も健在である。関ケ原の敗北は痛い。だが、家康はまだ滅びていない。
宇喜多隊の突破は、東軍の勝利を奪った。だが、それは徳川を消したのではなく、戦いを次の段階へ押し出したにすぎなかった。関ケ原の一日は、西軍勝利の一日であると同時に、豊臣方がその勝利を政治へ変えなければならない夜の始まりでもあった。
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史実との差分
史実では宇喜多隊は福島隊と激しく戦ったが、小早川秀秋の寝返りによって側面を突かれ、西軍は総崩れとなった。この if では宇喜多隊が福島隊を撃破し、家康本陣へ迫る。家康は討たれず清洲方面へ退くが、東軍は関ケ原を失い、西軍は戦場の勝利を得る。ただし、家康の東国基盤と秀忠の兵力は残っているため、天下はまだ確定しない。
読者ノート
この分岐の焦点は、宇喜多隊が家康本陣を突破すれば西軍が即座に天下を取る、という単純な話ではない。戦場では西軍が勝つが、家康は生きて退き、徳川の軍事・政治基盤も残る。次の局面は、三成が宇喜多・毛利・小早川・島津をまとめ、豊臣秀頼の名で戦場の勝利を天下の秩序へ変えられるかに移る。