北条早雲

ほうじょう そううん

1456年 〜 1519

戦国大名の魁(さきがけ)とされる武将。本名は伊勢盛時、出家後は早雲庵宗瑞(そうずい)と号し、生前は「北条」を名乗っていない(北条姓は子・氏綱以降)。室町幕府に仕える伊勢一族の出身で、妹が嫁いだ今川家の家督争いを収めて駿河に地歩を築いた。1493年に伊豆へ討ち入って堀越公方(ほりごえくぼう)・足利茶々丸を追放し、続いて相模の小田原城を奪取。一代で伊豆・相模に勢力を広げ、五代百年におよぶ後北条氏の礎を築いた。守護でも名門でもない立場から実力で一国を奪った生涯は、下剋上と戦国時代の幕開けを象徴するものとして語られる。生年には1432年説と1456年説があり、本サイトでは近年有力とされる1456年説(享年64)を採る。

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年表

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  • 1456伊勢氏の一族として生まれる(幼名は伊勢新九郎、諱は盛時)
  • 1487今川家の家督争いを収めて甥・氏親を当主に擁立し、その功で駿河・興国寺城を得て独立した所領を持つ
  • 1493伊豆へ討ち入り、堀越公方・足利茶々丸を追放(37歳)

    明応(めいおう)2年(1493年)、伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆へ討ち入り、堀越公方(ほりごえくぼう)・足利茶々丸を追放した事件。守護でも名門でもない武将が一国を奪い取った、戦国時代の幕開けを象徴する出来事とされる。

    史実

    伊豆では、室町幕府が関東支配のために置いた堀越公方(ほりごえくぼう)・足利政知が没した後、子の茶々丸が継母と異母弟を殺して家督を奪い、家中は乱れていた。駿河で甥・今川氏親(いまがわ・うじちか)の後ろ盾を得ていた伊勢宗瑞(そうずい)は、この内紛と、京で起きた明応(めいおう)の政変(細川政元による将軍すげ替え)に呼応する形で伊豆へ攻め入った。宗瑞は手勢に今川の支援を加え、堀越御所(ほりごえごしょ)を急襲して茶々丸を追った。茶々丸は一度は逃れて伊豆の山間部や周辺で抵抗を続けたが、宗瑞は数年をかけて伊豆一国を平定した。守護に任じられたわけでも家を継いだわけでもない宗瑞が、実力で一国の主となったこの事件は、後の下剋上の先駆けと評され、戦国時代の始まりを示す画期のひとつに数えられる。なお宗瑞の伊豆攻めの年次は延徳3年(1491年)とする説もあり、明応2年(1493年)説が近年有力とされる。

  • 1495相模の大森氏から小田原城を奪取

    明応(めいおう)年間、伊勢宗瑞(北条早雲)が相模の大森藤頼(おおもり・ふじより)から小田原城を奪い取った事件。鹿狩りを装って城へ近づき、夜に多数の牛の角へ松明を結んで大軍に見せかけたという伝説で知られる。

    史実

    小田原城は相模西部を押さえる要衝で、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏に従う大森氏が拠っていた。伊豆を平定した宗瑞(そうずい)は相模進出をうかがい、明応(めいおう)年間に大森藤頼(おおもり・ふじより)の油断を突いて小田原城を奪ったと伝わる。広く知られる「鹿狩りと偽って勢子(せこ)を城近くに入れ、夜陰に千頭の牛の角へ松明をくくりつけて大軍の襲来と思わせ、混乱に乗じて城を奪った」という逸話は、後世の軍記物に由来する伝説的色彩が濃く、史実としての裏付けは乏しい。奪取の年次も明応4年(1495年)説と明応5年(1496年)説があり確定していない。確かなのは、宗瑞がこの城を得たことで相模への足がかりを築き、以後の三浦氏との抗争と相模平定、そして小田原を本拠とする後北条氏の発展につながった点である。

  • 1504立河原の戦いで扇谷上杉勢を破り、関東へ進出
  • 1516新井城の戦いで三浦氏を滅ぼし、相模を平定
  • 1518家督を子・氏綱に譲る
  • 1519韮山城で病没(享年64)
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