大谷吉継

おおたに よしつぐ

1559年 〜 1600

豊臣秀吉に仕えた吏僚にして武将。行政・財政・兵站に卓越し、秀吉から「百万の兵を指揮させてみたい」と評されたと伝わる。敦賀(つるが)5万石の城主となり、文禄の役(ぶんろくのえき)では船奉行・兵站総奉行として大軍の補給を支えた。晩年は病(重い患い)により視力を失うほどであったが、務めを果たし続けた。盟友・石田三成との友情で名高く、関ヶ原の戦いでは西軍が不利と見抜きながらも、義によって三成に味方した。小早川秀秋の裏切りを予見して備えたが、頼みの脇坂安治(わきさか・やすはる)ら四将までもが寝返って隊は壊滅し、自刃した。義と友情に殉じた武将として後世に語り継がれる。生年・出自には諸説があり、本サイトでは享年42となる1559年説を採る。

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年表

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  • 1559近江に生まれる(生年・出自は諸説あり)
  • 1577豊臣秀吉に仕え、小姓・馬廻として頭角を現す
  • 1583賤ヶ岳の戦いに従軍する
  • 1589敦賀5万石を与えられ、敦賀城主となる
  • 1592文禄の役で船奉行・兵站を統括し、その才を高く評される

    天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、明国征服を目指して2度にわたり朝鮮半島へ大軍を送った戦役。秀吉死去で撤兵となり、豊臣政権弱体化と関ヶ原への布石となった。

    史実

    天正18年(1590年)の小田原征伐で天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、視線を海外へ向けた。文禄元年(1592年)4月、肥前名護屋(なごや)に本陣を構え、加藤清正(かとう・きよまさ)・小西行長(こにし・ゆきなが)ら9軍合計約16万の兵を朝鮮半島へ渡海させた(文禄の役(ぶんろくのえき))。緒戦は破竹の勢いで、5月には漢城(現ソウル)、6月には平壌(へいじょう)を占領した。しかし明国の援軍参戦と、李舜臣(り・しゅんしん)率いる朝鮮水軍に補給線を断たれ戦線は膠着する。1593年からは小西行長・沈惟敬(しん・いけい)らによる明との和平交渉が行われたが、双方の認識に大きな齟齬があり、1596年に交渉は決裂。秀吉は慶長2年(1597年)に再び大軍を派遣した(慶長の役(けいちょうのえき))。だが朝鮮南部での消耗戦が続く中、慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は伏見(ふしみ)城で病没。享年62。遺命を受けた五大老(ごたいろう)は撤兵を決定し、同年11月までに在朝日本軍は帰国した。この戦役は朝鮮半島に甚大な被害を与えると同時に、出兵諸将の対立(文治派の石田三成と武断派の加藤清正・福島正則(ふくしま・まさのり)ら)を生み、西国大名の財政疲弊を招いた。秀吉死後わずか2年後の関ヶ原の戦いの布石となった、豊臣政権崩壊の遠因である。

  • 1600関ヶ原の戦いで、敗北を覚悟しつつ盟友・石田三成に義で味方して奮戦する

    慶長5年(1600年)、美濃国関ケ原で東軍(徳川家康)と西軍(石田三成ら)が激突した、天下分け目の合戦。

    史実

    9月15日早朝、霧の中で開戦。当初は西軍が地形的に優位で戦況は一進一退だったが、家康の調略を受けていた小早川秀秋が松尾山から東軍に寝返り、大谷吉継(おおたに・よしつぐ)隊を急襲。これを契機に脇坂安治(わきさか・やすはる)・朽木元綱(くつき・もとつな)らも東軍側で動き、西軍は挟撃されて壊滅した。戦闘はわずか半日で決着。三成は伊吹山(いぶきやま)中に逃れたものの数日後に捕縛され、京の六条河原(ろくじょうがわら)で処刑された。この戦いにより家康は天下の実権を握り、3年後の慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開く。一方、毛利・上杉・宇喜多らの大大名は領地を大きく削られ、豊臣家は摂津・河内・和泉の60万石余の一大名へと転落した。

  • 1600関ヶ原で四将の寝返りにより敗れ、自刃(享年42)
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