徳川家康
とくがわ いえやす
1543年 〜 1616年
三河岡崎の生まれ。今川の人質時代を経て独立、信長と清洲同盟を結ぶ。三方ヶ原(みかたがはら)で武田信玄に大敗するも生き延び、本能寺の変では伊賀越え(いがごえ)で九死に一生を得た。秀吉に臣従して関東に移封、江戸を本拠地とする。秀吉死後は関ヶ原で勝利して天下を握り、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた。晩年には大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、徳川の天下を盤石にした。「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」と評される、忍耐と現実主義の人。
年表
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- 1543三河岡崎で松平広忠の長男として誕生
- 1547今川義元の人質として駿府へ送られる
- 1549父・広忠の死去により松平家の家督を相続(7歳。人質中のため実権は1560年以降)
- 1560桶狭間の戦い後、岡崎に帰還し独立
- 1562織田信長と清洲同盟を結ぶ
- 1566徳川姓に改姓
- 1572三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗
1582本能寺の変、伊賀越えで三河へ帰還▼
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死。堺に滞在していた家康は明智光秀の追手や一揆勢から逃れるため、伊賀の山中を越えて三河へ帰還した。
史実
1582年6月2日未明、明智光秀が京都本能寺で織田信長を急襲し、信長は自害した。当時、徳川家康は信長への安土饗応の答礼として堺を遊覧中であった。供は本多忠勝(ほんだ・ただかつ)・酒井忠次(さかい・ただつぐ)・井伊直政(いい・なおまさ)・服部半蔵(はっとり・はんぞう)ら30余名のみ。京都への上洛途中に変報を受けた家康は、自害(殉死)も口にしたが本多忠勝らに諫止され、三河帰還を決意した。一行は飯盛山(いいもりやま)・宇治田原(うじたわら)・信楽(しがらき)を経由し、伊賀の山中を抜けて伊勢白子(しろこ)から海路で三河に戻った。経路では土民一揆や落武者狩りに襲撃される危険があったが、伊賀同心であった服部半蔵が現地の伊賀者・甲賀者を動員し、一行を護衛した。家康はこの逃避行を生涯「神君伊賀越え(いがごえ)」と呼んで自らの最大の危機の一つに数えた。三河帰還後、家康は明智光秀討伐のため出陣準備をしたが、その間に羽柴秀吉が中国大返しから明智を山崎で破り、家康の出番はなくなった。これ以降、織田家臣団の力学は秀吉に集約されていく。
- 1584小牧・長久手の戦いで秀吉と対峙
- 1586秀吉に臣従、上洛
- 1590関東に移封、江戸を本拠地とする
- 1599七将襲撃事件で三成を匿う
1600関ヶ原の戦いで西軍を破り、天下の実権を握る▼
慶長5年(1600年)、美濃国関ケ原で東軍(徳川家康)と西軍(石田三成ら)が激突した、天下分け目の合戦。
史実
9月15日早朝、霧の中で開戦。当初は西軍が地形的に優位で戦況は一進一退だったが、家康の調略を受けていた小早川秀秋が松尾山から東軍に寝返り、大谷吉継(おおたに・よしつぐ)隊を急襲。これを契機に脇坂安治(わきさか・やすはる)・朽木元綱(くつき・もとつな)らも東軍側で動き、西軍は挟撃されて壊滅した。戦闘はわずか半日で決着。三成は伊吹山(いぶきやま)中に逃れたものの数日後に捕縛され、京の六条河原(ろくじょうがわら)で処刑された。この戦いにより家康は天下の実権を握り、3年後の慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開く。一方、毛利・上杉・宇喜多らの大大名は領地を大きく削られ、豊臣家は摂津・河内・和泉の60万石余の一大名へと転落した。
- 1603征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く
- 1605将軍を秀忠に譲り、大御所として駿府へ
1615大坂の陣で豊臣家を滅亡させる▼
慶長19年〜元和元年(1614〜1615年)、徳川家康が豊臣家を完全に滅ぼし、徳川の天下を盤石にした最後の戦。
史実
1614年、家康は方広寺(ほうこうじ)鐘銘(しょうめい)事件(『国家安康(こっかあんこう)・君臣豊楽(くんしんほうらく)』の銘文)を口実に豊臣家への武力行使を決断。同年10〜12月の冬の陣では大坂城の堀の深さに苦戦したが、和睦条件として外堀埋立てを実行し、城の防御力を奪った。翌1615年5月の夏の陣では、再起を期した豊臣方が出戦するも徳川軍に各地で敗退。5月7日、真田幸村が決死の本陣突撃を敢行し、家康本陣の馬印(うまじるし)が倒されたとも伝わる。家康はこの時自害を覚悟したという(諸説あり)。突撃は紙一重で食い止められ、同日大坂城は炎上、翌5月8日に豊臣秀頼と母・淀殿(よどどの)は山里曲輪(やまざとくるわ)で自刃。豊臣家は滅亡した。家康74歳での最後の大戦であり、戦国時代の終焉を象徴する事件となった。翌1616年、家康は駿府城で没した。
- 1616駿府城で死去(享年74)