石田三成
いしだ みつなり
1560年 〜 1600年
近江国坂田郡石田村に生まれ、若くして豊臣秀吉に仕えた文治派の武将。堺奉行などの要職を歴任し、卓越した行政手腕で五奉行(ごぶぎょう)の一人として豊臣政権の政務を統括した。佐和山城主として近江に所領を得る一方、加藤清正(かとう・きよまさ)ら武断派との対立を深めていく。秀吉の死後は徳川家康と対立し、関ケ原の戦いで西軍の実質的な指揮を執るも敗北。捕らえられて処刑された。義を重んじ、豊臣家への忠節に殉じた生涯として語られることが多い。
年表
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- 1560近江国坂田郡石田村に誕生
- 1574秀吉に仕える(三献茶の逸話)
- 1583賤ヶ岳の戦いに従軍
- 1585堺奉行に任命される
- 1590小田原征伐に参加、忍城水攻め
- 1591佐和山城主となり、石田家の家督を立てて独立した所領を得る(19万石)
- 1595五奉行の一人として政務を統括
- 1598秀吉死去
1599七将襲撃事件、佐和山に蟄居▼
慶長4年(1599年)閏3月、加藤清正(かとう・きよまさ)・福島正則(ふくしま・まさのり)ら武断派7将が、文治派の石田三成を襲撃しようとした事件。
史実
事件の背景には、朝鮮出兵での三成の査察活動に対する武断派諸将の積年の恨みがあった。前日の閏3月3日に武断派と文治派の対立を抑えていた前田利家が死去したことで、抑止力が失われ、7将(加藤清正(かとう・きよまさ)・福島正則(ふくしま・まさのり)・黒田長政(くろだ・ながまさ)・細川忠興(ほそかわ・ただおき)・浅野幸長(あさの・よしなが)・池田輝政(いけだ・てるまさ)・加藤嘉明(かとう・よしあきら))が動き出した。三成は事前に察知して大坂の屋敷を脱し、皮肉にも最大の政敵である徳川家康の伏見(ふしみ)屋敷に駆け込んだ。家康は7将を呼び出して仲裁し、三成の命を救う代わりに、五奉行(ごぶぎょう)職からの引退と佐和山城への蟄居を命じた。武断派の怒りを鎮め政敵を表舞台から消し、自らは「政権の調停者」としての地位を確立した家康にとって、最良の結末だった。三成は救われたが、政治家としては事実上失脚。これが翌慶長5年の関ケ原の戦いへ直接つながる伏線となった。
1600関ケ原の戦いで西軍を率いて敗北、処刑される▼
慶長5年(1600年)、美濃国関ケ原で東軍(徳川家康)と西軍(石田三成ら)が激突した、天下分け目の合戦。
史実
9月15日早朝、霧の中で開戦。当初は西軍が地形的に優位で戦況は一進一退だったが、家康の調略を受けていた小早川秀秋が松尾山から東軍に寝返り、大谷吉継(おおたに・よしつぐ)隊を急襲。これを契機に脇坂安治(わきさか・やすはる)・朽木元綱(くつき・もとつな)らも東軍側で動き、西軍は挟撃されて壊滅した。戦闘はわずか半日で決着。三成は伊吹山(いぶきやま)中に逃れたものの数日後に捕縛され、京の六条河原(ろくじょうがわら)で処刑された。この戦いにより家康は天下の実権を握り、3年後の慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開く。一方、毛利・上杉・宇喜多らの大大名は領地を大きく削られ、豊臣家は摂津・河内・和泉の60万石余の一大名へと転落した。
- 1600敗戦後に斬首・処刑(享年41)