もし関ヶ原の敗報を無視し、最上の山形城へ総攻撃を強行していたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

直江兼続(なおえ・かねつぐ)は上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の執政として、関ヶ原に連動した出羽方面の戦い(慶長出羽合戦)で上杉軍を指揮しました。

この場面で何が起きていた?

慶長5年(1600年)9月、兼続は最上義光(もがみ・よしあき)の長谷堂城(はせどうじょう)を包囲していました。そこへ関ヶ原で西軍が敗れたとの報が届きます。

史実ではこうだった

慶長五年九月、出羽・長谷堂城(はせどうじょう)。関ヶ原に連動した東北の戦い、慶長出羽合戦のさなかであった。 直江兼続(なおえ・かねつぐ)率いる上杉軍は最上義光(もがみ・よしあき)の領国へ侵攻し、畑谷城(はたやじょう)を落として最上方の前線拠点・長谷堂城を包囲していた。城将・志村光安(しむら・みつやす)らは寡兵ながら頑強に守り抜き、伊達政宗の援軍も加わって戦線は膠着する。 そこへ、九月十五日の関ヶ原で西軍が一日にして壊滅したとの報が届いた。敵地深くに孤立する危険を悟った兼続は、ただちに撤退を決断する。 兼続は自ら殿軍(しんがり)に立ち、前田利益(慶次)らと共に最上・伊達連合軍の猛追を凌ぎながら、主力をほぼ損なわずに会津へ退かせた。この長谷堂からの退き口は、戦国屈指の見事な撤退戦として後世に語り継がれている。戦後、上杉は米沢三十万石へ減封された。

もしここが変わったら?

もし兼続が撤退を捨て、最上義光(もがみ・よしあき)の山形城へ全軍で突撃していたら、上杉家はどうなっていたでしょうか。

今回の視点俯瞰視点

山形城、血に染まる――敗報を捨てた上杉軍、最上義光(もがみ・よしあき)を討つ

慶長五年(一六〇〇年)九月二十九日、最上領の長谷堂城(はせどうじょう)を包囲していた上杉軍の総大将・直江兼続(なおえ・かねつぐ)のもとに、大坂からの急使がもたらした衝撃の報告が届いた。秋雨が降りしきる冷たい陣幕の中で、もたらされた知らせは、九月十五日の関ヶ原の戦いにおいて、上杉が裏で呼応していた石田三成ら西軍がわずか半日で壊滅し、五大老(ごたいろう)筆頭の徳川家康率いる東軍が完全な勝利を収めたという破滅的な内容であった。このあまりにも惨憺たる敗報は、山形の敵地深く深く攻め入っていた上杉軍の将兵にとって、背後の退路を完全に遮断され、敵軍の海の中で孤立無援の窮地に立たされることを意味していた。誰の目にも、ここは主力を救うべく直ちに兵を返し、最上・伊達連合軍の猛烈な追撃を凌ぎながら会津へ退くべき局面であった。 しかし、この凄絶な分岐において、兼続の脳裏を過ったのは冷静な撤退の合理性ではなく、上杉の武名と宿敵・最上義光(もがみ・よしあき)への底知れぬ闘志であった。ここで恥を晒して会津へ逃げ帰ったところで、家康の圧倒的な権力と軍事力の前に、上杉家が改易や減封といった滅亡の運命を免れる道など残されてはいない。「逃げて死ぬよりは、戦って死ぬ。このまま山形城へ全軍で突撃し、最上義光の首を挙げて奥羽に上杉の意地を示そう!」という兼続の常軌を逸した決意に、評定の場は激しく揺れ動いた。だが、兼続の烈火のごとき気迫に呑まれた前田利益(まえだ・とします)をはじめとする豪傑たちは不敵な笑みを浮かべて槍を握り直し、長谷堂城の包囲を解いて最上軍の本拠である山形城への総攻撃へと舵を切った。
長谷堂城の堅固な抵抗に阻まれていた上杉軍であったが、西軍敗北による絶望を狂気的な闘志へと変えた将兵の突撃は、凄まじいものがあった。上杉の精鋭は、山形城の外堀をまたたく間に突破し、二の丸へと攻め入った。最上義光は、関ヶ原の勝利を知って上杉軍が撤退に入ると確信していたため、この不意の猛攻に驚愕した。最上軍は死に物狂いで防戦したが、死を覚悟した上杉兵の猛り狂う攻勢を食い止めることはできなかった。ついに本丸の門が破られ、上杉兵が雪崩れ込む。最上義光は家臣たちに脱出を促されるも、それを拒絶し、先祖伝来の広間で自ら腹を切って果てた。 山形城の天守には、上杉の「竹に飛雀」の旗が翻った。しかし、この勝利は上杉家にとって滅びへのカウントダウンに過ぎなかった。宿敵・最上義光を討ち取ったものの、上杉軍の損害も甚大であり、将兵は疲弊しきっていた。さらに、最上を支援していた伊達政宗は、上杉のこの暴挙を見て即座に日和見姿勢を捨て、本格的な上杉討伐へと兵を動かした。関ヶ原での戦後処理を終えた徳川家康は、西軍の残党にして家康の権威を著しく汚した上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)と直江兼続に対し、全国の諸大名に動員令をかけ、会津へと包囲網を狭めていった。山形城を血で染めて得た一時的な勝利の先に待っていたのは、四方から押し寄せる徳川の大軍と、抗う術のない上杉家の悲劇的な破滅の足音であった。

史実との差分

史実では関ヶ原の敗報を聞いた直江兼続(なおえ・かねつぐ)は即座に撤退を決断し、見事なしんがり戦を指揮して主力を会津へ帰還させた。このifルートでは、兼続が敗報を無視して狂気的な山形城への総攻撃を強行。最上義光(もがみ・よしあき)を討ち取ることに成功するものの、東軍勝利の天下の中で完全に孤立し、伊達・徳川による包囲網によって滅亡へ突き進むこととなった。

読者ノート

関ヶ原の敗戦という絶対的な不利に対し、冷静さを失った兼続が「破滅の美学」に走る様子を描いています。一時的な局地戦の勝利が、大局的な破滅を決定づけるという皮肉がテーマです。

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