黒田官兵衛黒田孝高

くろだ かんべえ

1546年 〜 1604

播磨出身の知将。実名は孝高、出家後は如水(じょすい)と号す。小寺氏の家老から織田信長に臣従を勧め、羽柴秀吉の軍師として頭角を現した。荒木村重(あらき・むらしげ)の説得に赴いて有岡城(ありおかじょう)に約一年幽閉され、九死に一生を得た苦難でも知られる。本能寺の変の直後、秀吉に天下取りの好機を進言し、中国大返しと山崎の勝利を導いた立役者であり、竹中半兵衛とともに『両兵衛』と並び称される。関ヶ原の戦いの際には、隠居の身ながら豊前(ぶぜん)中津(なかつ)で自ら軍を起こし、石垣原(いしがきばる)で大友義統(おおとも・よしむね)を破って九州を席巻、『もし関ヶ原が長引いていれば天下を狙った』という野望伝説を残した。キリシタン大名でもあり、その深謀は戦国随一とされる。

if物語で注目したい転換点

黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)のif物語では、本人の才覚だけでなく、周囲が官兵衛をどう見て、どう扱ったかにも注目できます。有岡城(ありおかじょう)で幽閉された官兵衛を信長がどう判断するか、松寿丸(しょうじゅまる)の命を半兵衛がどう扱うか、本能寺の変後に秀吉がどう動くか、関ヶ原後の停戦命令に官兵衛がどこまで従うか。官兵衛の物語では、「官兵衛自身の選択」と同じくらい、「信長・秀吉・家康が官兵衛をどう扱ったか」が大きな分岐になります。

年表

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  • 1546播磨国姫路で、小寺氏家老・黒田職隆の子として誕生(実名は孝高)
  • 1567父の跡を継ぎ、小寺氏の家老として姫路城代となる(家督相続)
  • 1575主君・小寺政職に織田信長への臣従を進言し、羽柴秀吉との取次役となる
  • 1578荒木村重の説得に有岡城へ赴き、約一年間幽閉される(足が不自由になる)

    天正6年(1578年)、織田信長に反旗を翻した荒木村重(あらき・むらしげ)を説得するため、黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)が単身有岡城(ありおかじょう)に乗り込み、捕らえられて土牢(つちろう)に幽閉された出来事。

    史実

    天正6年(1578年)10月、摂津の荒木村重(あらき・むらしげ)が信長に対して突如謀反を起こした。東播磨を平定しつつあった信長にとって、有岡城(ありおかじょう)の村重の離反は致命的な脅威であった。小寺政職(こでら・まさもと)の使者として、また個人的な説得を試みるため、黒田官兵衛(当時33歳)は単身で有岡城へ赴く。しかし説得は受け入れられず、官兵衛は捕らえられ土牢(つちろう)へと幽閉された。主君・小寺政職の裏切りも重なり、官兵衛の消息は途絶え、信長は官兵衛が荒木方に寝返ったと誤解。怒り狂った信長は、人質として信長側に送られていた官兵衛の嫡男・松寿丸(しょうじゅまる)の処刑を命じた。だが、同僚の軍師・竹中半兵衛が機転を利かせて松寿丸を匿い、辛うじてその命を救った。官兵衛は約1年間にわたり狭く不衛生な牢に囚われ続け、脚に終生残る障害を負った。天正7年10月、有岡城が落城した際、黒田家の家臣団によって無事に救出され、自身の潔白と息子の生存を知らされることとなる。

  • 1582本能寺の変の直後、秀吉に天下取りの好機を進言し、中国大返しを導く

    本能寺の変の急報を受けた羽柴秀吉が、備中高松城から京近郊まで約230kmをわずか10日で踏破した強行軍と、その直後に明智光秀を破った山崎の戦い。

    史実

    天正10年(1582年)6月、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めで包囲し、毛利氏と対陣していた。6月3日深夜、京都本能寺で信長が明智光秀に討たれたとの急報が秀吉のもとへ届く。秀吉は密使を捕らえて毛利方への情報遮断を図り、6月4日には安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の仲介で清水宗治(しみず・むねはる)の自刃を条件に毛利と和睦。6月6日に高松を撤して京へ向け転進し、姫路城で軍装を整えた後、6月12日には摂津富田に到達した。約230kmを10日で踏破するこの強行軍は『中国大返し』と呼ばれる。途中、池田恒興(いけだ・つねおき)・中川清秀(なかがわ・きよひで)・高山右近(たかやま・うこん)らが合流し、軍勢は4万に膨れ上がった。6月13日、山崎の地で明智光秀軍1万6千と激突し、秀吉軍は天王山(てんのうざん)を制圧して光秀軍を撃破。光秀は坂本城へ落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)の竹藪で土民の襲撃に遭い命を落とした。本能寺の変からわずか11日後の決着であり、秀吉はこの勝利で信長の後継者としての地位を確立、織田家中の主導権を握る出発点となった。

  • 1587九州平定の功などにより豊前中津に封じられる
  • 1589家督を子・長政に譲って隠居し、如水と号す
  • 1600関ヶ原に呼応して豊前中津で挙兵し、石垣原で大友義統を破る

    慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いと並行して、隠居していた黒田如水(官兵衛)が豊前(ぶぜん)中津(なかつ)で急遽軍を起こし、豊後(ぶんご)・石垣原(いしがきばる)で西軍方の大友義統(おおとも・よしむね)を破って九州の制圧に乗り出した戦い。『関ヶ原が長引けば天下を狙った』という如水(じょすい)の野望伝説で名高い。

    史実

    慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際し、黒田如水(官兵衛)は豊前(ぶぜん)中津(なかつ)に隠居していたが、嫡子・長政は東軍主力として徳川家康に従い東へ出陣していた。如水(じょすい)は、長く蓄えた金銀を惜しみなく放出して浪人や農民を募り、急ごしらえの軍を編成する。そして旧領回復を狙って西軍方として豊後(ぶんご)へ侵攻してきた大友義統(おおとも・よしむね)を、慶長5年9月13日、石垣原(現・大分県別府市)で迎え撃って破った。如水はさらに九州各地の西軍方の城を攻略し、加藤清正(かとう・きよまさ)らと連携して九州をほぼ席巻する勢いを見せる。その真意については、東軍に貢献するためとも、関ヶ原が長期化した隙に自ら天下を狙ったとも諸説あり、『もし関ヶ原が長引いていれば、九州を平定して中央へ攻め上る腹であった』という逸話が広く知られる。だが関ヶ原本戦がわずか一日で東軍の勝利に終わったため、如水の九州での戦いは大勢を決する前に意味を失い、家康の停戦命令により如水は矛を収めた。嫡子・長政の関ヶ原での大功もあり、黒田家は筑前福岡52万石を得る。如水の野望伝説は、戦国乱世の最後を飾る逸話として語り継がれている。

  • 1604京都伏見で病没(享年59)