もし上杉が最上義光と和議を結び、共に伊達政宗へ対抗していたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

直江兼続(なおえ・かねつぐ)は上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の執政として、出羽方面の戦略を担いました。

この場面で何が起きていた?

慶長5年(1600年)9月、上杉は西軍に呼応し、隣国の最上義光(東軍方)への侵攻を始めようとしていました。

史実ではこうだった

慶長五年九月、出羽。家康の会津征伐が石田三成の挙兵で頓挫すると、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)は西軍に呼応し、隣国の最上義光(もがみ・よしあき)への侵攻を決めた。 最上は東軍方であり、もともと上杉とは領境をめぐって対立する間柄であった。両者の全面衝突は避けられない。直江兼続(なおえ・かねつぐ)率いる上杉軍は最上領へなだれ込み、畑谷城(はたやじょう)を落として長谷堂城(はせどうじょう)を包囲する。 最上義光は伊達政宗に援軍を求めつつ、寡兵で懸命に防戦した。やがて関ヶ原で西軍が敗れると、上杉軍は撤退を余儀なくされ、兼続は名高い殿軍(しんがり)の退却戦で主力を会津へ退かせる。 戦後の論功行賞で、東軍として戦った最上義光は出羽五十七万石へと大きく加増された。逆に上杉は会津百二十万石から米沢三十万石へ減封される。奥羽の勢力図は、この戦いを境に大きく塗り替えられた。

もしここが変わったら?

もし上杉と最上が戦わずに和議を結び、伊達政宗に共同で対抗していたら、奥羽の行方はどうなったでしょうか。

今回の視点俯瞰視点

出羽の国境、静かなる盟約――上杉と最上、伊達を封じる奥羽連帯

慶長五年九月、徳川家康率いる会津征伐軍が石田三成らの西軍挙兵によって引き返した後、会津の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)と執政の直江兼続(なおえ・かねつぐ)は、隣国である最上領への侵攻を決定した。しかし、兼続の脳裏には冷静な計算があった。最上家との全面的な衝突は、仮に勝利したとしても双方に甚大な損害をもたらし、結果として隣国で虎視眈々と領地拡大を狙う伊達政宗や、天下の覇権を握ろうとする徳川家康の思う壺になる。最上義光(もがみ・よしあき)もまた、家康と同盟を結びつつも、徳川が最上家を上杉に対する単なる捨て石として利用し、戦後に改易するのではないかと深い猜疑心を抱いていた。 兼続は軍を最上国境の米沢付近へと進める一方で、密かに信頼の置ける使者を山形城の最上義光のもとへと派遣した。闇夜に乗じて交わされた書状に示された条件は、上杉による最上領への不侵犯の確約と、領地奪還を狙って動く伊達政宗への対抗を目的とした共同防衛体制であった。義光はこの現実的かつ魅力的な和平案を深く検討し、ついに密約の受諾を決断した。両家は表向きは国境で激しく対峙し、今にも決戦が始まるかのように見せかけつつ、その実、水面下では互いの兵を傷つけない不可侵の同盟を構築したのである。 上杉軍は最上領への深い侵攻をあえて中止し、主力の一部を最上と伊達の境界付近、さらには会津・伊達の国境沿いへと移動させた。この動きを最上軍の「防衛成功」あるいは「膠着」と捉えた伊達政宗は、棚ぼた式の領地拡大を狙って最上領や上杉の庄内地方へ侵攻する機会をうかがっていた。しかし、最上・上杉の両軍が背後を脅かし合いながらも、伊達領の境界を威嚇するように整然と布陣していたため、政宗は自陣を離れて動くことができなくなった。最上と上杉という奥羽の二大勢力が手を結んだことは、伊達軍の北上や南下を完全に阻む致命的な防壁となったのである。
この間に西方の関ヶ原において西軍が壊滅したとの報が届いた。だが奥羽の地は、西国の戦塵とはまるで様相を異にしていた。上杉と最上は無駄な血を流し合っておらず、互いに軍事的な余力を十分に保持したままであった。最上義光は「上杉との交戦で最上は甚大な被害を受けた」と徳川方に虚偽の書状を送りつつ、上杉の軍勢が健在であることを理由に、家康からの過度な軍事介入や領地改変を拒絶した。 数ヶ月後、会津および山形には雪が降り積もり、冬の静寂が支配していた。家康は関ヶ原の戦後処理において、上杉を厳しく処分する腹づもりであったが、最上が上杉と密約を結んで軍事行動を拒否し、伊達も牽制されたままであったため、奥羽での新たな戦乱勃発を恐れざるを得なかった。もし上杉を潰そうと強硬に出れば、最上や伊達をも巻き込んだ奥羽全体の大規模な反乱に発展する危険があった。 家康は和議による妥協を選択し、上杉家に対する改易処分を大幅に和らげ、会津および周辺領土の大半を安堵する決定を下した。兼続は米沢城にて、最上義光からの親書を手にする景勝の傍らに立っていた。無駄な戦を回避し、誇りと領土を守り抜いた兼続の智謀は、雪国の民に大いなる安穏をもたらしたのである。城外では、両家の街道を繋ぐ関所が穏やかに開かれ、米や塩、各種物資を積んだ馬車の往来が盛んに行われていた。奥羽の連帯が、徳川の覇権に対する静かなる盾となり、新しい時代の曙光を寒空の下に照らし出していた。

史実との差分

史実では、会津の上杉軍は最上領へ全面的に侵攻し、長谷堂城(はせどうじょう)を巡って激戦を繰り広げました。この物語では、侵攻開始時に直江兼続(なおえ・かねつぐ)が最上義光(もがみ・よしあき)と密かに和議を結び、両家が共同で伊達政宗の領地拡大の野心を抑え込む同盟を構築。その結果、関ヶ原後の処理において上杉家は大幅な領地削減を免れました。

読者ノート

最上義光(もがみ・よしあき)は徳川家康と同盟していたものの、内心では家康が最上家を奥羽の防波堤として使い捨てるのではないかと危惧していました。直江兼続(なおえ・かねつぐ)はその不信感を見抜き、領地保証と伊達への共同防衛を条件に密約を提示しました。この奥羽連帯により、家康も戦後に上杉を厳しく処罰できなくなりました。

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