豊臣秀長
とよとみ ひでなが
1540年 〜 1591年
豊臣秀吉の弟。実名は当初「長秀」、のちに「秀長」。農民の出で継ぐべき家督はなく、兄とともに身を起こした。兄を一貫して支える補佐役・調整役として豊臣政権を支え、軍事・行政・諸大名との調整のすべてに手腕を発揮した。1585年の四国平定では総大将を務め、1587年の九州征伐では日向(ひゅうが)方面軍を率いて根白坂(ねじろざか)の戦いで島津軍を破った。大和・紀伊・和泉100万石を領し、大和大納言(だいなごん)と称される。「内々の儀は宗易(2)、公儀の事は宰相(秀長)に」と言われるほど政権の要であったが、1591年に病没。温厚で人望厚い彼の死は豊臣政権の重しが外れる契機となり、その後の動揺の遠因になったとも評される。「秀長が長命であれば豊臣の天下は続いた」とも惜しまれる、補佐役の名手である。
年表
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- 1540尾張に生まれる(秀吉の弟。実名は長秀、のちに秀長)
- 1564兄・秀吉に従って武将となり、その片腕として各地を転戦する
- 1577中国攻めに従軍し、但馬・因幡方面の攻略にあたる
- 1585四国平定の総大将として長宗我部元親を降す。大和・紀伊・和泉100万石を得て大和大納言となる
1587九州征伐で日向方面軍を率い、根白坂の戦いで島津軍を破る▼
天正15年(1587年)、九州征伐において豊臣秀長が率いる軍が、日向(ひゅうが)の根白坂(ねじろざか)で島津軍の夜襲を撃退し、九州平定を決定づけた戦い。
史実
1587年、豊臣秀吉は20万を超える大軍で九州の島津氏を攻めた。弟・秀長は日向(ひゅうが)方面軍の総大将として南下し、島津義久(しまづ・よしひさ)・義弘らの軍と対峙した。4月17日深夜、島津方は秀長軍が築いた根白坂(ねじろざか)の付城(つけじろ)に決死の夜襲をかけたが、宮部継潤(みやべ・けいじゅん)らが守る陣は持ちこたえ、藤堂高虎(とうどう・たかとら)・宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)らの援軍も加わって島津勢を撃退した。島津方はこの敗北で組織的な抵抗の力を失い、まもなく当主・島津義久は剃髪して秀吉に降伏、九州平定が完成した。秀長は軍事の総大将としてだけでなく、降伏交渉や戦後の九州仕置の調整役としても手腕を発揮した。温厚で人望厚い秀長の存在は、降った島津をはじめ諸大名を豊臣政権につなぎとめる要となっていた。
- 1588聚楽第行幸に供奉するなど、諸大名の調整役として豊臣政権の中枢を担う
1591大和郡山城で病に倒れ、豊臣政権を支えた重しが失われる▼
天正19年(1591年)、豊臣政権の補佐役・調整役として兄秀吉を支えた大和大納言(だいなごん)・豊臣秀長が病没した。政権の重しを失った豊臣家は、以後さまざまな動揺に見舞われていく。
史実
秀長は秀吉の弟として軍事・行政・諸大名との調整のすべてを担い、「内々の儀は宗易(1)、公儀の事は宰相(秀長)に」と言われるほど豊臣政権の要であった。温厚篤実な人柄で諸大名の信頼も厚く、専横に走りがちな秀吉と諸将との間を取り持つ緩衝役を果たしていた。しかし天正19年1月、病のため大和郡山(やまとこおりやま)城で没した(享年52)。その死の直後から、千利休の切腹(同年2月)、朝鮮出兵構想の本格化、関白(かんぱく)秀次(ひでつぐ)の悲劇(1595年)など、豊臣政権の歯止めを失ったかのような出来事が相次ぐ。後世、「秀長があと十年生きていれば豊臣の天下は続いた」と惜しまれ、補佐役・調整役の重要性を象徴する人物として語られる。
- 1591大和郡山城で病没(享年52)