もし足利茶々丸が伊豆を脱出し、再起を図っていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

伊勢宗瑞(北条早雲)は、守護でも名門でもない立場から実力で一国を奪った武将で、戦国大名の魁と呼ばれます。その最初の大仕事が伊豆討ち入りでした。

この場面で何が起きていた?

1493年、宗瑞(そうずい)は手勢と今川の支援を率いて伊豆へ攻め入り、堀越御所(ほりごえごしょ)を急襲しました。御所を支配していたのは、継母と弟を殺して家督を奪った足利茶々丸です。

史実ではこうだった

明応(めいおう)二年、伊勢宗瑞(そうずい)は伊豆へ兵を向けた。 伊豆を治める堀越公方(ほりごえくぼう)・足利茶々丸は、父の死後に継母と異母弟を手にかけて家督を奪った人物で、家中の人望を失っていた。宗瑞はその乱れに付け込み、駿河の今川氏親(いまがわ・うじちか)から得た支援を加えて堀越御所(ほりごえごしょ)に迫った。 急襲を受けた御所は浮き足立った。茶々丸は防ぎきれず、御所を捨てて伊豆の山間部へ逃れた。宗瑞はそのまま伊豆各地の国人を切り崩していった。 茶々丸は甲斐や伊豆の山中で抵抗を試みたが、宗瑞は数年をかけて一つずつ拠点を潰し、ついに伊豆一国を平定した。守護でも名門でもない者が一国の主となった、戦国の幕開けであった。

もしここが変わったら?

もし茶々丸が御所からいち早く脱出し、周辺勢力の支援を取り付けて組織立った抵抗を続けていたら、宗瑞(そうずい)の伊豆平定はもっと長く、険しいものになっていたかもしれません。

俯瞰視点

堀越御所(ほりごえごしょ)は落ちた、だが茶々丸は山へ消え、伊豆の戦は長引いた

上部広告
明応(めいおう)二年の秋、伊勢宗瑞(そうずい)は伊豆へ兵を向けた。手勢に駿河の今川氏親(いまがわ・うじちか)が貸した人数を加え、夜陰に乗じて堀越御所(ほりごえごしょ)へ迫る。弓を構えた者が先頭に立ち、槍を担いだ徒歩の兵がそれに続いた。京で起きた将軍すげ替えの政変が、宗瑞の挙兵に大義の影を添えていた。 御所はもともと、足利茶々丸が継母と異母弟を手にかけて奪った場所であった。家中の人望は薄く、急襲の報せが伝わると、警固の者の多くは戦う前に持ち場を離れた。宗瑞の兵が門を破ったとき、奥の館はすでに静まりかえっていた。篝火だけが、主のいない庭を照らしていた。 しかし茶々丸はそこにいなかった。御所の異変を察した近習が、当主をいち早く裏手の山道へ落としていたのである。宗瑞が館を制したころ、茶々丸の一行は夜の山中を東へ向かい、土地の国人を頼って身を隠していた。御所は落ちたが、首は獲れなかった。宗瑞は深追いの兵を出さず、まず御所の周辺を固めることを選んだ。 宗瑞はすぐに伊豆各地の国人へ使者を送り、味方に付くよう促した。三島や韮山(にらやま)の周辺では、いち早く宗瑞へ従う者が現れた。だが伊豆は山が深く、入り組んだ谷ごとに小さな勢力が割拠している。海沿いの道は細く、谷から谷への往来も容易ではない。茶々丸が生きて山にあると知れ渡ると、南や東の国人は態度を決めかね、戦況を見定めようと様子をうかがった。 茶々丸は甲斐の勢力や、伊豆の山間に拠る者たちへ次々と書状を送った。御所を追われた公方とはいえ、室町の血を引く名分は、なお人を動かす力を残していた。宗瑞が一つの谷を押さえれば、別の谷で兵が起こる。攻めれば退き、退けばまた集まる。平定は、宗瑞が当初見込んだよりもはるかに長い戦いになっていった。
記事中広告
宗瑞は急がなかった。降った国人には所領を安堵し、年貢を軽くして人心を集めた。荒らした田には種籾を分け、戻ってきた百姓を労わった。力で潰すよりも、味方を増やして茶々丸の頼みを一つずつ削っていく――それが、駿河の支えを背に持つ宗瑞の取りうる道であった。降る者が増えるたび、山に残る茶々丸の勢力は痩せていった。 数年が過ぎた。宗瑞は韮山に城を構えてここを伊豆経営の本拠とし、三島から韮山にかけての伊豆北部を確かに押さえた。街道筋と平野はおおむね宗瑞の手に収まり、城下には市が立ち始めた。 だが伊豆南部と東部の山がちな地は、なお茶々丸方と、それに連なる国人が割拠したままであった。茶々丸自身は山間の拠点を移りながら、甲斐や周辺の勢力を頼みに抵抗を続けている。宗瑞が次に望むはずの箱根を越えての相模への進出は、背後の伊豆が片付かぬ限り、容易には踏み出せなかった。 御所は落とした。北の要地も握った。それでも一国はまだ宗瑞のものではない。降った国人の数は年々増えているが、山の懐は深く、茶々丸の名分はなお燻っている。山の向こうで燻り続ける火が、いつ消えるのか、あるいはいつまた燃え広がるのか――韮山の城に立つ宗瑞にも、その答えは、まだ見えていなかった。
下部広告

史実との差分

史実では茶々丸は追われて勢力を失い、宗瑞(そうずい)は数年で伊豆一国を平定し、続いて相模へ進出した。このifでは茶々丸が御所から早期に脱出して組織的な抵抗を続けたため、宗瑞の伊豆平定は長期化し、相模進出が遅れる。

読者ノート

宗瑞(そうずい)の強みは武力だけでなく、降った者に所領を安堵し年貢を軽くして人心を集める統治のうまさにありました。御所の占領と一国の平定は別物だという点に、この時代の「国を獲る」難しさが表れています。