もし討ち入りが失敗し、宗瑞が伊豆で討たれていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
伊勢宗瑞(北条早雲)は、後に五代百年つづく後北条氏の祖となる武将です。しかしこの時点では、まだ駿河に小さな所領を得たばかりの新興勢力にすぎませんでした。
この場面で何が起きていた?
1493年、宗瑞(そうずい)は限られた手勢で伊豆の堀越御所(ほりごえごしょ)を急襲しました。圧倒的な兵力で攻めたわけではなく、敵の内紛と油断を突いた賭けに近い戦いでした。
史実ではこうだった
明応(めいおう)二年、伊勢宗瑞(そうずい)は手勢を率いて伊豆へ渡った。
大軍ではない。駿河で得たわずかな所領と、甥・今川氏親(いまがわ・うじちか)からの支援が頼りであった。狙うのは、家中の乱れた堀越公方(ほりごえくぼう)・足利茶々丸の御所ただ一つである。
宗瑞は敵の油断を突いて御所へ迫った。急襲は図に当たった。御所は崩れ、茶々丸は逃げ、伊豆は宗瑞の手に落ちていく。
もしこの急襲が一歩でも狂っていれば――接近が物見に知られ、堀越方が槍衾(やりぶすま)を組んで待ち受けていれば――少ない手勢の宗瑞に勝ち目は薄かった。一国を得るか、陣中に骨を埋めるか。宗瑞の賭けは、紙一重の成功であった。
もしここが変わったら?
もしこの賭けが失敗し、宗瑞(そうずい)が伊豆攻めの陣中で討たれていたら、後北条氏は生まれず、伊豆も相模もまったく別の手に渡っていたかもしれません。
伊豆の闇に消えた賭け――宗瑞(そうずい)、堀越の陣に倒る
上部広告
明応(めいおう)二年の夜、伊勢宗瑞(そうずい)は手勢を率いて伊豆へ渡った。駿河の興国寺城(こうこくじじょう)で得たわずかな所領と、甥・今川氏親(いまがわ・うじちか)からの支えが頼りである。狙うのは、家中の乱れた堀越御所(ほりごえごしょ)ただ一つであった。京で起きた政変に乗じ、当主の座を血で奪った足利茶々丸の足元が揺らぐ今こそ、ただ一度の好機と宗瑞は見ていた。
月のない夜を選び、宗瑞は山道を縫って堀越へ近づいた。物見を避け、灯を消し、声を殺す。御所の油断を突いて一気に攻め落とす――それだけが、少ない手勢で一国を奪う唯一の道であった。宗瑞は幾度も己の読みを確かめた。御所の門はどこが手薄か、坂のどこで喊声を上げれば最も効くか。すべて頭の中にあった。あとは図の通りに運ぶだけだ、と。
だが、闇は宗瑞の味方だけではなかった。先行した足軽の一隊が沢筋で堀越方の見張りと出くわし、礫(つぶて)と叫び声が夜気を裂いた。報せは御所へ走った。茶々丸方は寝込みを襲われる側ではなく、待ち受ける側に回った。宗瑞の読みのひとつが、ここで狂ったのである。
御所の前の坂で、堀越勢は槍衾(やりぶすま)を組んで宗瑞の手勢を迎えた。宗瑞は退かなかった。ここで引けば手勢は散り、駿河へ帰る道すら断たれる。二度とこの賭けは打てぬ。前へ出るほかにない。太刀を抜き、槍衾へ自ら馬を入れた。背に続く手勢の息づかいが、頼もしくも痛ましくもあった。
白兵は長くは続かなかった。数で劣る宗瑞の手勢は坂上から押し下げられ、左右の竹林から矢が降った。宗瑞は馬を失い、徒歩で踏みとどまったが、囲みは縮まるばかりであった。近習が「殿、退かれよ」と叫ぶ声も、もはや坂を覆う喊声にかき消された。
記事中広告
夜明け前、宗瑞は堀越御所を望む坂の途中で討たれた。三十七年の生涯であった。手勢の多くは伊豆の山に散り、わずかな者が舟で駿河へ落ち延びて、興国寺城に主の死を伝えた。
知らせを受けた今川氏親は、すぐには動かなかった。伯父の遺した興国寺城をそのまま放っておけば、伊豆の堀越方が西へ手を伸ばしかねない。氏親は家臣を入れて興国寺城を接収し、駿河東部の守りとして抱え込んだ。宗瑞の嫡子はまだ数え七つの幼児であり、父の所領も志も継げる年ではなかった。
伊豆では、御所を守り抜いた茶々丸方が一時の勢いを得た。だが家中の乱れまでが収まったわけではなく、国人衆はそれぞれの城に拠って割拠を続けた。茶々丸の権は伊豆一国を束ねるには遠く、伊豆は誰の手にも完全には握られぬまま、小さな争いを重ねていった。山がちな伊豆の地は、もとより一つの手に握りにくい土地であった。
箱根の向こう、相模の小田原は大森氏のものであり続けた。西の駿河で今川氏親が東部を固めても、その兵は箱根を越えなかった。扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏の威は変わらず関東に張り、その均衡を揺るがす新たな手は、ついに東から現れなかった。
一介の牢人あがりが一国を奪うという話は、伊豆の坂で潰えた。関東に「新しい力」が育つ芽があったのかどうか、それを確かめる者は、もういなかった。
下部広告
史実との差分
史実では宗瑞(そうずい)は急襲を成功させ茶々丸を追って伊豆を平定し、後に相模へ進んで後北条氏の礎を築いた。この物語では急襲が露見して宗瑞が堀越の陣で討たれ、関東に北条の家は現れない。興国寺城(こうこくじじょう)は今川氏親(いまがわ・うじちか)が接収し、伊豆は割拠、相模は大森・扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)のままとなる。
読者ノート
宗瑞(そうずい)の討ち入りは大軍による正攻法ではなく、内紛と油断を突いた賭けに近い戦いでした。だからこそ、わずかな綻びが結果を反転させ得たのです。一人の武将の生死が、その後百年の関東の姿を左右した可能性を感じ取っていただければと思います。