山中鹿之助山中幸盛

やまなか しかのすけ

1545年 〜 1578

尼子十勇士の筆頭と謳われる尼子家の忠臣。実名は幸盛。「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で知られる。主家滅亡後、新宮党(しんぐうとう)の遺児・尼子勝久(あまこ・かつひさ)を擁立して尼子再興軍を起こし、宿敵・毛利氏に何度も挑んだ。織田信長や羽柴秀吉の援助を得て播磨上月城(こうづきじょう)に拠ったが、別所長治(べっしょ・ながはる)の三木城攻めを優先する信長の判断により織田の援軍が撤退。孤立無援となった上月城で降伏し、護送途中に川の渡しで謀殺された。その不屈の忠義は、後世に武士の鑑として長く語り継がれている。

年表

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  • 1545出雲国で尼子氏家臣・山中満幸の次男として誕生(実名は幸盛、幼名は甚次郎)
  • 1560兄・幸久が病弱であったため、山中家の家督を相続
  • 1566毛利元就の富田城包囲により主君・尼子義久が降伏し、尼子氏が滅亡。浪人となる
  • 1569新宮党の遺児・尼子勝久を京都から擁立。出雲に上陸して再興軍を起こす(再興軍の結成)

    永禄12年(1569年)、山中鹿之助らが尼子氏再興のため、新宮党(しんぐうとう)の遺児である尼子勝久(あまこ・かつひさ)を擁立して起兵した出来事。

    史実

    永禄9年(1566年)、毛利元就の包囲により月山富田城(がっさんとだじょう)が落城し、尼子氏は滅亡した。遺臣である山中鹿之助は主家再興を胸に誓い、京都の東福寺で仏門に入っていた尼子勝久(新宮党の遺児)を説得して還俗させた。永禄12年(1569年)6月、鹿之助らは隠岐国の有力者・隠岐為清(おき・ためきよ)らの支援を得て、出雲国へ上陸。旧臣たちに呼びかけて起兵した。当時、毛利氏は九州の大友氏との戦いに主力を注いでいたため、出雲は手薄であった。尼子再興軍はたちまち数千の勢力に膨れ上がり、新山城(しんやまじょう)を攻略して出雲の大部分を一時的に奪還。月山富田城を包囲するなど、毛利氏の背後を大いに脅かした。しかし、翌年に毛利軍が精鋭を率いて山陰に急行し、布部山(ふべやま)の戦いで再興軍は敗北を喫することとなる。

  • 1570布部山の戦いで毛利軍に大敗。のちに捕縛されるが、監視の隙を突いて脱出する
  • 1578羽柴秀吉の支援を得て、播磨最前線の上月城を守備する。直後に毛利大軍に包囲される

    天正6年(1578年)、播磨上月城(こうづきじょう)に籠もる尼子再興軍に対し、毛利軍が包囲。織田軍(羽柴秀吉)が救援を断念して撤退した事件。

    史実

    天正5年(1577年)から始まった織田信長の中国攻略において、羽柴秀吉は播磨の最前線である上月城(こうづきじょう)に尼子勝久(あまこ・かつひさ)・山中鹿之助らの尼子再興軍を配置した。しかし天正6年(1578年)、毛利軍の吉川元春(きっかわ・もとはる)・小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)らが率いる約3万の大軍が上月城を急襲。時を同じくして、播磨では別所長治(べっしょ・ながはる)が三木城で織田に反旗を翻していた。背後に大規模な反乱を抱えた織田信長は戦力分散を恐れ、秀吉に対し「上月城を見捨て、書写山まで後退して三木城攻めに集中せよ」と厳命した。秀吉は非情の命令に従い撤退。孤立無援となった上月城の尼子軍は数か月の籠城の末に降伏した。尼子勝久は一族とともに自刃し、尼子氏は完全に滅亡。山中鹿之助は捕縛され、毛利の本陣へ護送される途中に備中国阿井の渡し(あいのわたし)で暗殺された。これにより鹿之助の尼子再興の執念は悲劇的な結末を迎えた。

  • 1578上月城が落城。尼子勝久は切腹し、尼子氏は滅亡する
  • 1578捕虜として毛利本陣へ護送される途中、備中国阿井の渡しにて暗殺される(享年34)