もし官兵衛の毛利との講和交渉が決裂していたら?

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この武将はどんな人?

黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)は、戦わずして勝つ調略と外交を得意とする軍師でした。中国大返しの成否は、背後の毛利をいかに素早く、穏便に切り離すかにかかっていました。

この場面で何が起きていた?

備中高松城を囲む秀吉軍の背後には、毛利の大軍が対陣していました。信長の死が毛利に伝われば、和睦は崩れ、撤退する秀吉は挟み撃ちになります。官兵衛は信長の死を悟られる前に、安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)を通じて電光石火の講和をまとめました。

史実ではこうだった

天正十年六月、備中高松。 本能寺の急報は、秀吉の陣に張り詰めた沈黙をもたらした。黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)は、誰よりも早く、最大の難所を見抜いていた。背後の毛利である。 眼前には、清水宗治(しみず・むねはる)の籠もる高松城。そしてその後詰として、吉川元春(きっかわ・もとはる)・小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)の率いる毛利の大軍が対陣している。もし信長の死がこの両軍に伝われば、和睦の話は吹き飛び、撤退する秀吉軍は前後から食い破られる。 官兵衛は、時を移さず動いた。信長の死を厳重に伏せたまま、講和の取次である安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)に渡りをつけ、城主・清水宗治の自刃を条件とする和睦を、驚くべき速さでまとめ上げる。毛利方が信長の死を知ったのは、秀吉がすでに東へ駆け去った後であった。 だが、もしこの交渉が決裂していたら――。 恵瓊との渡りがつかず、あるいは信長の死が早々に毛利方へ漏れていれば、講和は成らない。毛利は好機と見て動く。吉川元春は撤退する秀吉の背に食らいつき、小早川隆景は山陽道を断つ。秀吉は東へ向かうどころではなく、西の毛利を抑えるために釘付けとなる。 中国大返しは、幻と消える。京で待つ明智光秀を討つ役目は、秀吉の手から滑り落ち、畿内に近い別の織田家臣――あるいは光秀自身が固めた地歩のもとで、天下の行方はまったく違う盤面へと移っていくことになる。

もしここが変わったら?

もし官兵衛の毛利との講和交渉が決裂し、毛利が信長の死を知って秀吉の背後を襲っていたら、中国大返しそのものが成り立たず、光秀を討つ役目も天下取りの先頭も、秀吉の手をすり抜けていたかもしれません。

俯瞰視点

もし官兵衛の毛利講和が決裂し中国大返しが幻と消えていたら

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天正十年六月、備中高松の城は満々と張られた水に浮かんでいた。蛙ヶ鼻に築かれた長大な堤が足守川の流れを堰き止め、わずか数日のうちに城は田畑もろとも孤島と化している。秀吉の本陣はその濁った水面を見下ろす丘にあり、対岸の山並みには吉川元春(きっかわ・もとはる)と小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)の旗指物が、夏の陽にぎらぎらと連なっていた。城内の清水宗治(しみず・むねはる)はなお屈せず、囲む側もまた、後詰の毛利大軍と高松の城兵に挟まれた危うい立場にあった。 京の凶事は、思いのほか早く西へ流れた。本能寺で信長が明智光秀に討たれたという報せは、講和の取次役・安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の手を経て、官兵衛が必死に口を封じきろうとする前に、すでに毛利の陣へ届いてしまっていた。恵瓊は表情を消したまま、隆景の天幕の奥へと消えた。官兵衛が清水宗治の自刃を条件とする和睦を、寝食を惜しんで電光石火に整えようとしたとき、堤を渡って戻ってきた毛利方の返答は、氷のように冷ややかであった。 「織田の主はもはや亡い。なにを急いで宗治どのの首を差し出すことがあろうか。和睦の道理は、すでに崩れておる」 隆景は腰を据え、戦局の変転を冷静に読んだ。元春はその逆に、勢いよく立った。撤退の気配をわずかに見せ始めた秀吉の背を、いま追わぬ手はないと見たのである。和睦の使者は空しく泥の堤を渡って引き返し、官兵衛が積み上げてきた調略の網は、一夜にして宙に浮いた。
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秀吉は焦り、迷った。東へ一気に駆ければ光秀を討ち、織田家中で天下の主導を握れる。だが西を空ければ、毛利の大軍が播磨まで雪崩れ込み、築いてきた領国そのものを失う。彼が陣を払いかけたまさにその刻、元春の先手が秀吉軍の殿の隊へ猛然と食らいついた。槍がぶつかり、火縄銃の白い煙が水面を這うように低く流れる。秀吉本隊は山陽道の沼城のあたりで足を止めざるを得ず、東への道は刻一刻と閉ざされていった。 隆景はさらに別働の兵を割き、播磨の姫路へと続く街道の要所をひとつ、またひとつと断っていった。報せと噂が交錯するなか、東の様子を探りにやった秀吉の使番は、確かな知らせを持ち帰れぬまま行き暮れた。後の世に中国大返しと呼ばれたはずの、備中から京への強行軍は、ついに最初の一歩すら踏み出されることなく潰えた。 確かなことは三つある。元春は高松の囲みの一角を破って沼城へ迫り、秀吉をその身ごと山陽道へ縛りつけた。隆景は備前の街道筋を押さえ、播磨への退路を細く絞り上げた。そして秀吉は西の毛利を捨てられぬまま、京へ向かう軍をついぞ仕立てられなかった。 光秀を討つという晴れの役目は、もはや秀吉の手のうちにはない。摂津の池田恒興(いけだ・つねおき)か、丹羽長秀か、あるいは堺にあった織田信孝らの誰が先に兵をまとめて京へ返すか。天下取りの先頭は、備中の水辺に釘付けとなった男の手を音もなくすり抜け、東の畿内へと転がり始めていた。官兵衛はなお新たな策を練り続けるが、失われた数日という時だけは、いかなる調略をもってしても二度と取り戻せぬ。
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史実との差分

史実では官兵衛が信長の死を毛利に悟られる前に恵瓊と渡りをつけ、清水宗治(しみず・むねはる)の自刃を条件とする和睦を即座にまとめた。毛利が死を知ったのは秀吉が東へ去った後で、これにより約230kmを約10日で駆ける中国大返しが成立し、秀吉は山崎で光秀を討って天下取りの主導権を握った。本作では信長の死が早く漏れて講和が決裂し、元春の追撃と隆景の街道封鎖で秀吉が山陽道に釘付けとなり、大返しと光秀討伐の機会が他者へ移る。

読者ノート

中国大返しは「背後の毛利が動かないからこそ可能だった」点を押さえると、この分岐の重さが見えてきます。官兵衛の真価は戦場の采配以上に、情報を制し講和を一瞬で固める調略にありました。その一手が外れると、秀吉の天下は土台から揺らぎます。誰が次に京へ兵を返すのか、想像しながら読んでみてください。