もし官兵衛が山崎の戦いで全軍の采配を委ねられていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)は、地形を読み、敵の心理を計って戦う知略の人でした。急ぎ駆け戻った大返しの軍をどう用いるかは、まさに軍師の腕の見せ所でした。
この場面で何が起きていた?
中国大返しで京近郊まで取って返した秀吉軍は、山崎の地で明智光秀軍と対峙しました。淀川と天王山(てんのうざん)に挟まれた狭い隘路が戦場です。史実では秀吉の指揮のもと、天王山の確保と兵力差で光秀を破りました。
史実ではこうだった
天正十年六月十三日、山崎。
中国大返しの強行軍を終えた秀吉軍は、淀川と天王山(てんのうざん)に挟まれた隘路で、明智光秀の軍と向かい合った。備中から駆け戻った兵たちは疲れていたが、道々で池田恒興(いけだ・つねおき)・高山右近(たかやま・うこん)・中川清秀(なかがわ・きよひで)らが合流し、その数は光秀軍を大きく上回っていた。
秀吉は自ら総大将として采配を執った。まず天王山の高みを押さえて隘路を見下ろし、正面と側面から光秀軍を圧していく。兵力に勝る秀吉勢の猛攻の前に、光秀の備えはほどなく崩れた。
光秀は勝竜寺(しょうりゅうじ)城へ追い落とされ、夜陰に紛れて近江坂本をめざす。だが、その途上の小栗栖(おぐるす)で、落武者狩りの手にかかって果てた。本能寺の変からわずか十一日。秀吉は主君の仇を討ち、織田家中の主導権を握る第一歩を、自らの手で記したのである。
もしここが変わったら?
もし官兵衛が山崎の戦いで全軍の采配を委ねられていたら、天王山(てんのうざん)と淀川筋を巧みに押さえる深謀によって、光秀をより鮮やかに、より少ない犠牲で討ち取り、軍師としての名声を一段と高めていたかもしれません。
今回の視点俯瞰視点
天王山(てんのうざん)、夜明けの尾根を先取りせよ――官兵衛の采配、山崎を制す
天正十年六月、備中から取って返した羽柴の軍は、淀川と天王山(てんのうざん)に挟まれた山崎の隘路へなだれ込んでいた。十日で備中から駆け戻った兵の足は重く、具足の擦れた肩は赤く腫れている。本陣で秀吉は床几(しょうぎ)を蹴って立ち上がり、傍らの黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)へ短く言い放った。「戦の采配はそなたに任せる。布陣も用兵も、勝ち方まで含めて好きにせよ」。諸将がどよめく中、官兵衛は深く頭を垂れ、そして即座に物見を放った。
明智の構えは一万六千、川筋を前に布いている。対する味方は合流して四万に近いが、疲れは数では補えぬ。官兵衛が真っ先に命じたのは、天王山の高みを一歩先んじて押さえることだった。中川清秀(なかがわ・きよひで)と高山右近(たかやま・うこん)に精兵を割き、夜の明けきらぬうちに尾根筋を駆け登らせる。「山を取れば、川筋の敵は上から見下ろされる。撃ち減らすのが目的ではない。頭上から狙われていると思わせよ」。疲れた足にまた坂を登らせる無理を、官兵衛は承知の上で、それでも一刻を争った。山の頂を先に得るか後に得るかで、この隘路の戦の半ばは決すると見切っていたのである。
諸将の中には、四万の大軍をもってなぜ一気に攻めかからぬのかと、いきり立つ者もいた。だが官兵衛は動じなかった。「数を恃んで隘路へ押し込めば、味方が味方を踏み、足の遅れた者から倒れる。狭い道では、多きが少なきに勝るとは限らぬ」。彼は地形そのものを味方につけ、敵の数を狭い道の中で持て余させようとしていた。
さらに官兵衛は淀川の渡しに伏兵を伏せた。光秀の退路を断ち、坂本や勝竜寺(しょうりゅうじ)からの援軍を渡らせぬためである。正面では池田恒興(いけだ・つねおき)らに無理攻めを固く禁じ、火縄銃を高所と隘路の口に並べさせた。疲れた足軽を突っ込ませて磨り潰すのではなく、鉄砲の斉射で敵を引きつけ、こちらの仕掛けに乗せる。「逸るな。崩れる一点を待て。そこに全てを集めるのだ」と官兵衛は諸将に繰り返した。逸る武将を抑えるその采配は、力よりも理で組み上げられていた。
昼が近づき、天王山から斉射が降り注ぐと、明智方の右翼が浮き足立った。隘路に詰まった敵が後ろへ押し返され、備えに歪みが生じる。その歪みを官兵衛は見逃さなかった。号令一下、温存していた中軍が一点へ突き入る。力押しではなく、開いた口へ刃を差し込むような攻めである。明智の備えは堰を切ったように崩れ、兵は円明寺川を越えて潰走を始めた。隘路が味方の死骸で埋まることはついになかった。
光秀は本隊を立て直そうとしたが、淀川の伏兵が退路を脅かし、天王山は既に味方の手にない。為す術なく勝竜寺城へ追い落とされ、わずかな手勢とともに城門を閉ざした。羽柴方の犠牲は驚くほど少なく、諸将はその鮮やかさに声もなかった。
戦の後、秀吉は官兵衛の采配を諸将の前で高々と称えた。天王山も淀川筋も勝竜寺城の囲みも、すべて黒田の差配で押さえたものである。軍師の名は一夜にして畿内に轟いた。
信長の仇を討った功は、羽柴秀吉の手に確かに帰した。光秀を勝竜寺へ追い落とし、京と畿内を最も鮮やかに制した将として、秀吉は柴田勝家や丹羽長秀に一歩先んじて織田家中の主導権を握った。次に争われるのは戦場ではない。織田家の遺領と幼い後継者をいかに扱うかを決する、清洲の評定の場である。そこで秀吉が推す名と、勝家が推す名がぶつかることになる。官兵衛は血に汚れた具足も脱がぬまま、早くも坂本と近江の絵図を広げ、評定の前に押さえるべき城と、味方に引き入れるべき国衆の名を、秀吉の耳もとで一つずつ数え上げ始めていた。
史実との差分
史実では秀吉自身が総指揮を執り、天王山(てんのうざん)と隘路で諸将が力戦して兵力差で押し切った。このifでは秀吉が采配を官兵衛に全面委任し、官兵衛が地形と心理を用いて最小の犠牲で備えを崩す。光秀が勝竜寺(しょうりゅうじ)城へ追い落とされる結末は史実と同じだが、軍師・官兵衛の名声が突出して高まり、清洲会議へ向かう家中の力学に黒田が重みを持つ点が異なる。
読者ノート
本作は「もしも」を想定した歴史創作であり、史実の記録そのものではありません。地名や兵力は当時の概況を踏まえた描写ですが、台詞や心理は創作的な再構成です。