豊臣秀吉
とよとみ ひでよし
1537年 〜 1598年
尾張中村の農民出身。木下藤吉郎(きのした・とうきちろう)として織田信長に仕え、草履取り(ぞうりとり)から一国の主まで駆け上がった戦国一の出世人。本能寺の変では『中国大返し』で京へ取って返し、山崎の戦いで明智光秀を破って信長の後継者となった。賤ヶ岳(しずがたけ)で柴田勝家を破り、関白(かんぱく)・太政大臣となって豊臣姓を授かる。1590年の小田原征伐で天下を統一し、刀狩(かたながり)・太閤検地(たいこうけんち)など秩序立った政策で戦国の幕引きを進めた。だが晩年の二度の朝鮮出兵は失敗に終わり、1598年に伏見(ふしみ)城で病没。享年62。豊臣政権はわずか2年後の関ヶ原で揺らぐことになる。
年表
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- 1537尾張国愛知郡中村で誕生(出自は諸説あり)
- 1554織田信長に仕える(木下藤吉郎)
- 1561浅野長勝の養女ねね(北政所)と結婚
- 1573近江長浜城主となり、羽柴姓を名乗る
- 1577中国攻めの総大将として播磨へ赴任
1582中国大返しを敢行、山崎の戦いで明智光秀を破る▼
本能寺の変の急報を受けた羽柴秀吉が、備中高松城から京近郊まで約230kmをわずか10日で踏破した強行軍と、その直後に明智光秀を破った山崎の戦い。
史実
天正10年(1582年)6月、羽柴秀吉は備中高松城を水攻めで包囲し、毛利氏と対陣していた。6月3日深夜、京都本能寺で信長が明智光秀に討たれたとの急報が秀吉のもとへ届く。秀吉は密使を捕らえて毛利方への情報遮断を図り、6月4日には安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の仲介で清水宗治(しみず・むねはる)の自刃を条件に毛利と和睦。6月6日に高松を撤して京へ向け転進し、姫路城で軍装を整えた後、6月12日には摂津富田に到達した。約230kmを10日で踏破するこの強行軍は『中国大返し』と呼ばれる。途中、池田恒興(いけだ・つねおき)・中川清秀(なかがわ・きよひで)・高山右近(たかやま・うこん)らが合流し、軍勢は4万に膨れ上がった。6月13日、山崎の地で明智光秀軍1万6千と激突し、秀吉軍は天王山(てんのうざん)を制圧して光秀軍を撃破。光秀は坂本城へ落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)の竹藪で土民の襲撃に遭い命を落とした。本能寺の変からわずか11日後の決着であり、秀吉はこの勝利で信長の後継者としての地位を確立、織田家中の主導権を握る出発点となった。
- 1583賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る
- 1584小牧・長久手の戦いで徳川家康と対峙、後に和睦
- 1585関白に就任し、豊臣政権の当主として天下を掌握。同年中に四国を平定
- 1586太政大臣となり、豊臣姓を授かる
- 1587九州を平定
- 1588刀狩令を発布、聚楽第に後陽成天皇を迎える
- 1590小田原征伐で北条氏を降し、天下統一を完成
1592文禄の役、朝鮮出兵を開始▼
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、明国征服を目指して2度にわたり朝鮮半島へ大軍を送った戦役。秀吉死去で撤兵となり、豊臣政権弱体化と関ヶ原への布石となった。
史実
天正18年(1590年)の小田原征伐で天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、視線を海外へ向けた。文禄元年(1592年)4月、肥前名護屋(なごや)に本陣を構え、加藤清正(かとう・きよまさ)・小西行長(こにし・ゆきなが)ら9軍合計約16万の兵を朝鮮半島へ渡海させた(文禄の役(ぶんろくのえき))。緒戦は破竹の勢いで、5月には漢城(現ソウル)、6月には平壌(へいじょう)を占領した。しかし明国の援軍参戦と、李舜臣(り・しゅんしん)率いる朝鮮水軍に補給線を断たれ戦線は膠着する。1593年からは小西行長・沈惟敬(しん・いけい)らによる明との和平交渉が行われたが、双方の認識に大きな齟齬があり、1596年に交渉は決裂。秀吉は慶長2年(1597年)に再び大軍を派遣した(慶長の役(けいちょうのえき))。だが朝鮮南部での消耗戦が続く中、慶長3年(1598年)8月18日、秀吉は伏見(ふしみ)城で病没。享年62。遺命を受けた五大老(ごたいろう)は撤兵を決定し、同年11月までに在朝日本軍は帰国した。この戦役は朝鮮半島に甚大な被害を与えると同時に、出兵諸将の対立(文治派の石田三成と武断派の加藤清正・福島正則(ふくしま・まさのり)ら)を生み、西国大名の財政疲弊を招いた。秀吉死後わずか2年後の関ヶ原の戦いの布石となった、豊臣政権崩壊の遠因である。
- 1593嫡子・秀頼が誕生
- 1595豊臣秀次切腹事件
- 1597慶長の役、再度の朝鮮出兵
- 1598伏見城で病没(享年62)