もし直江兼続が直江状を送らず、上洛して家康に恭順していたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

直江兼続(なおえ・かねつぐ)は、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の執政(家老)として上杉家の政治と軍事を取り仕切った人物です。会津120万石へ移った上杉家の実質的な切り盛り役でした。

この場面で何が起きていた?

慶長5年(1600年)、徳川家康は上杉家の軍備増強を「謀反の疑い」とし、景勝に上洛と釈明を求めました。

史実ではこうだった

慶長五年春、会津。豊臣秀吉亡き後、五大老(ごたいろう)筆頭の徳川家康は急速に権勢を強めていた。 会津百二十万石へ移ったばかりの上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)は、神指城(こうざしじょう)の築城や道路の整備、牢人の召し抱えなど領国の経営を進める。家康はこれを「謀反の準備」と断じ、上洛して釈明せよと迫った。 執政・直江兼続(なおえ・かねつぐ)は屈しなかった。景勝の正当性を主張し、家康側の理不尽を理路整然と、かつ挑発的に突く返書を送りつける。世にいう『直江状(なおえじょう)』である。 激怒した家康は会津征伐の軍を起こした。だがその東下の隙を突いて、上方で石田三成が挙兵する。家康は下野・小山で軍を反転させ、西へ取って返した。一通の書状が、天下を二分する関ヶ原の戦いの引き金となったのである。戦後、上杉は米沢三十万石へと大きく減らされた。

もしここが変わったら?

もし兼続が誇りを抑え、上洛して家康に恭順していたら、上杉家はどんな道を歩んだでしょうか。

今回の視点俯瞰視点

灰となった直江状(なおえじょう)――上杉、会津征伐を避けて徳川に膝を屈す

慶長五年(1600年)の初夏、会津・神指城(こうざしじょう)の仮本丸には、息が詰まるほどの沈黙が満ちていた。豊臣秀吉の死後、天下の覇権をその掌中に収めつつあった徳川家康は、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)による急激な軍備増強と新城建設を「謀反の兆し」と断定し、上洛して釈明することを求める強い書状を送ってきた。これに対し、上杉の執政である直江兼続(なおえ・かねつぐ)は、家康の不当な疑念を理路整然と論破し、徹底抗戦を辞さない覚悟を示す挑戦的な返書、いわゆる直江状(なおえじょう)を執筆し終えていた。手元にあるその書状を送れば、徳川との決戦は避けられない。 しかし、兼続はその筆を握ったまま、深夜の書斎で深く目を閉じた。窓の外では、月光が未完成の神指城の石垣を冷たく照らし出している。兼続の心裏をよぎったのは、亡き謙信公以来受け継いできた上杉の誇りと、戦火に晒されるであろう会津の民の姿であった。現在の上杉家は越後から会津120万石へ移封されて間もなく、領内の基盤は極めて不安定である。伊達や最上といった東軍寄りの大名に周囲を囲まれたこの地で、天下の徳川と開戦すれば、たとえ一戦を耐え抜いたとしても、上杉の地は焦土と化すことは明白であった。 己の誇りのために国を滅ぼすか、屈辱を呑んで生き残るか。兼続は、自らの内に煮え滾る闘志を強引に抑え込み、書き上げたばかりの抗議書状を炭取りの中へと静かに投じた。立ち上る炎が、挑戦的な文言をまたたく間に黒い灰へと変えていく。
翌朝、兼続は主君・景勝の前に平伏し、説得を試みた。「いま家康と争うは、上杉の家を滅ぼすのみにございます。非難を呑み、上洛して恭順を示すべきです」。景勝は長い沈黙を守り、やがて静かに頷いた。上杉家は神指城の築城普請を即座に停止し、領内の牢人たちを解雇。兼続は家康への平身低頭な平謝りの書状をしたため、景勝の代わりに自ら使者として伏見(ふしみ)城へと向かった。伏見城にて家康の前に平伏した兼続は、一切の反論をせず、ひたすらに景勝の忠誠を誓い、恭順の意を述べた。 家康はその従順な態度を前に、会津征伐の大義名分を失い、上杉の謝罪を受け入れざるを得なくなった。しかし、それは上杉にとって対等な平穏を意味しなかった。家康は上杉の平謝りを受け入れつつも、その軍備を制限し、重臣である兼続の行動を厳しく監視する体制を整えた。それから数か月後、会津盆地は戦火を免れ、百姓たちは平穏な秋の収穫に追われていた。しかし、神指城の築城は再開されることなく、放置された石垣には雑草が生い茂る廃墟のようになっていた。兼続は米沢の居館にあって、家康から届いた新たな領内監視掟を検分していた。戦は回避され、上杉の家名は守られたが、五大老(ごたいろう)としての発言力は完全に失われ、実質的な徳川の従属大名としての道を歩み始めることとなった。天下の権力が徳川へ一極集中していく中、かつて目指した「義」の旗印が色褪せていくような寂寥感を抱えながら、兼続はただ無言で掟書を見つめ、牙を抜かれた上杉の薄暗い未来を静かに見据えていた。

史実との差分

史実では、直江兼続(なおえ・かねつぐ)は家康の糾問状に対して極めて挑発的な『直江状(なおえじょう)』を送りつけ、これにより家康は会津征伐を決定し、関ヶ原の戦いへと歴史が動きました。この物語では、兼続が開戦のリスクを恐れて書状を送らず、恭順の意を示して上洛謝罪したため、会津征伐および関ヶ原の連動決戦が回避されています。

読者ノート

もし上杉が恭順を選んでいたら、関ヶ原の引き金となった会津征伐自体が起きず、石田三成らの挙兵のタイミングや家康の天下統一のシナリオは大きく遅れるか、あるいは別の形をとったと考えられます。上杉は家名を残すものの、政治的発言力を大きく削がれて歴史の主役から退くことになります。

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