もし上杉軍が小山から反転する徳川軍の背後を追撃していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
直江兼続(なおえ・かねつぐ)は上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の執政として、会津120万石の軍政を取り仕切り、家康との対決姿勢を主導した中心人物です。
この場面で何が起きていた?
慶長5年(1600年)、会津征伐に向かった家康は、石田三成挙兵の報を受けて下野国小山で軍を反転させ、西へ引き返しました(小山評定)。
史実ではこうだった
慶長五年七月、下野・小山。上杉討伐に向かっていた徳川家康は、石田三成挙兵の報を受け、ここで諸将を集めて軍議を開いた。世にいう小山評定である。
家康は軍を反転させ、西へ引き返すことを決断する。会津の上杉に備えて次男・結城秀康を宇都宮に残し、自らは主力を率いて東海道を西へ取って返した。
執政・直江兼続(なおえ・かねつぐ)は追撃を景勝に進言したとも伝わる。だが上杉軍は動かなかった。北の最上義光(もがみ・よしあき)、東の伊達政宗という東軍方の大名に背後を脅かされ、領国を空にして南下する危険は冒せなかった。
家康は無事に西上し、関ヶ原で勝利を収める。ついに追撃に動かなかった上杉は、戦後に会津百二十万石から米沢三十万石へと大幅に減封された。
もしここが変わったら?
もし上杉軍が会津から出撃し、反転する家康軍の背後を急襲していたら、天下の行方はどうなったでしょうか。
今回の視点俯瞰視点
宇都宮に翻る雀の旗――上杉南下で天下は東西二分の長期戦へ
慶長五年七月、下野国・小山において、上杉征伐のために大軍を進めていた徳川家康は、大坂で石田三成らが挙兵したとの急報を受け、急遽軍を反転させて西上することを決断した。このいわゆる小山評定の急激な動静は、会津の神指城(こうざしじょう)に籠もる上杉家にも直ちに伝わった。執政である直江兼続(なおえ・かねつぐ)は、主君・上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)の前に進み出ると、好機到来として撤退する徳川軍の背後を襲う猛追撃を強く進言した。謙信公以来の「義」を重んじる景勝は、「退く敵を追うは不義」と一時躊躇したものの、兼続は「家康をここで叩かねば、天下の覇権は奪われ、上杉の未来はない。これこそが真の義戦である」と、関東の地図を広げて説得した。背後を伊達や最上に脅かされる中、徳川を叩く好機は今しかないという兼続の戦略的現実策を受け入れ、景勝は重い腰を上げた。景勝の決断により、上杉の精鋭二万余の軍勢は、会津盆地から山王峠を越え、怒涛の勢いで下野国へと南下を開始した。
上杉軍の先陣を務める本庄繁長や須田長義らは、白河口から那須路を急襲し、徳川軍の殿軍(しんがり)として宇都宮城に残されていた結城秀康の防衛線を突破した。鬼怒川の渡河点をめぐる攻防において、上杉の鉄砲隊は高台から容赦ない射撃を浴びせ、徳川の防衛線を切り崩した。撤退の途上にあった徳川の輜重隊や後陣は、上杉の「愛」の旗印と猛攻の前に大混乱に陥った。結城秀康は必死に防戦し、古河方面から急行した榊原康政の援軍と共に反撃を試みたが、地元の地理を熟知する上杉の斥候と伏兵に翻弄され、宇都宮城の放棄を余儀なくされた。この大打撃により、小山から西へ引き返そうとしていた家康の本隊も行軍を停止し、上杉の南下を阻止するために一部の兵を引き返させざるを得なくなった。
この上杉の追撃決断により、歴史の歯車は誰も予想しなかった方向へと回り始めた。徳川軍の西上が遅れたことで、西軍の石田三成や宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)らは大坂周辺の体制を万全に整え、尾張や美濃の要衝を易々と制圧した。一方で東国は、徳川・上杉・伊達・最上・佐竹の諸勢力が入り乱れる巨大な戦乱の坩堝と化した。もはや、一度の合戦で天下の趨勢が定まる目はなくなっていた。戦いは、日本列島を東と西に二分する長期の泥沼戦へと突入したのである。
秋が深まる頃、下野の北半分は上杉の手に握られていた。宇都宮城の天守には「愛」と雀の旗が並んで翻り、兼続はここを南進の拠点として兵糧と鉄砲を運び込ませた。結城秀康は利根川の南岸まで退いて渡し場に柵を築き、古河に集まった榊原康政の軍と繋いで、辛うじて江戸の北を塞ぐ線を保つ。西へ返そうとした家康の本隊は駿河で足を止めたまま動けず、関東と西国のどちらにも兵を裂かねばならぬ苦しい立場へ追い込まれた。関東の主導権は、この一戦で上杉の側へ確かに傾いたのである。次に争われるのは、利根川の渡し場をめぐる攻防であった。ここを上杉が越えれば江戸への道が開き、徳川が守り切れば北の脅威を封じ込められる。兼続は宇都宮城の物見櫓に立ち、雨に煙る南の街道を見下ろしながら、渡河点に伏せる兵の配置を絵図に書き入れさせた。会津から届いた早馬は、背後の白河口で伊達勢が動き始めたと告げている。兼続は絵図から目を上げ、南と北、二つの戦線へ同時に指図を飛ばした。
史実との差分
史実では、直江兼続(なおえ・かねつぐ)や景勝は小山評定で引き返す徳川軍を追撃せず、領内の守備や最上・伊達への対策を優先しました。このifストーリーでは、上杉軍が会津から出撃して徳川軍の殿(結城秀康ら)を急襲し、宇都宮城を占拠。これにより家康の西上が遅れ、関ヶ原の戦いが起こらずに東国での大乱へと歴史が変化しています。
読者ノート
上杉の追撃論は歴史ファンの間で最も有名なifの一つです。実際に追撃が行われた場合、家康の西上が大幅に遅れ、豊臣家臣団の結束や石田三成の生存戦略に大きな影響を与え、天下の行方が全く予測不可能になるカオスな状況が生まれます。