もし鉄砲三段撃ちが機能しなかったら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

織田信長は鉄砲を大規模に集団運用した戦術革命の先駆者です。長篠の戦いでは3千丁(諸説あり)の鉄砲を用意し、武田の騎馬隊を粉砕しました。

この場面で何が起きていた?

1575年5月の長篠の戦いでは、信長が三段撃ちの戦術を展開しました。これは火薬と火縄に依存する戦術で、雨天に弱いという致命的な弱点がありました。

史実ではこうだった

天正三年五月二十一日早朝、設楽原。 信長は鉄砲三千丁を三列に並べ、交互に撃たせる戦術を準備していた(『三段撃ち』、ただし実際の運用には諸説あり)。馬防柵を三重に築き、武田騎馬隊が柵に阻まれて速度を落とした瞬間に鉄砲で撃ち倒す――鉄砲集団運用による戦術革命だった。 五月二十一日、武田勝頼(たけだ・かつより)は突撃を命じた。山県昌景(やまがた・まさかげ)の部隊が先鋒として馬防柵に突入する。 鉄砲が一斉に火を吹いた。山県が落馬する。続く部隊も鉄砲に阻まれた。馬場信春(ばば・のぶはる)も、内藤昌豊(ないとう・まさとよ)も、武田の精鋭が次々と倒れた。柵を越えられないまま、武田の騎馬隊は壊滅した。 この戦いで武田は『四天王』と呼ばれた重臣の多くを失った。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟。武田家の精鋭はこの一日で消えた。 信長の鉄砲戦術は世界戦史に名を残す『戦術革命』とされた。ただし、この戦術は天候に大きく依存していた。火縄が湿れば、火薬が湿気れば、機能しない。長篠の朝は晴天だった。それも信長の幸運だった。

もしここが変わったら?

もし長篠の朝が雨天で、信長の鉄砲が湿気で機能しなかったら、武田の騎馬隊は柵を越えて突入し、戦は武田の勝利に終わっていたかもしれません。

今回の視点俯瞰視点

雨の設楽原――火を失った三千丁

天正三年五月二十一日、設楽原の朝は低い雲に覆われていた。夜半から降り出した雨は、夜明けになっても弱まらない。馬防柵の前に掘られた溝には泥水が溜まり、柵の縄は雨を吸って重く垂れていた。 織田信長は本陣の床几(しょうぎ)に腰を据え、戦場を見渡した。鉄砲三千丁。三列に並べた足軽に交互に撃たせ、武田の騎馬を柵の前で止める。そのために馬防柵を幾重にも組み、徳川家康の兵と連携して武田勝頼(たけだ・かつより)を受け止める手筈であった。 だが、火縄銃は雨に弱い。前夜から鉄砲奉行たちは油紙で筒を覆い、火縄を濡らさぬよう命じていた。それでも、降り続く雨は火皿の火薬を湿らせ、火縄の火を細らせていた。佐々成政が本陣へ駆け込み、撃てる筒が大きく減っていると告げた時、信長の眉がわずかに動いた。 卯の刻を過ぎるころ、武田方が動いた。山県昌景(やまがた・まさかげ)の赤備えが先鋒となり、雨の中を馬防柵へ進む。続いて馬場信春(ばば・のぶはる)、内藤昌豊(ないとう・まさとよ)の隊が動く。勝頼は重臣たちの退却論を退け、この雨を味方と見たのである。 「放て」 号令が飛んだ。だが、設楽原に響くはずの銃声はまばらだった。火が回らぬ筒、煙だけを吐く筒、湿った火薬を抱えたまま沈黙する筒。撃てた銃も次弾を込める間に火縄を失い、足軽たちは互いの顔を見合わせた。
武田勢はその隙を逃さなかった。赤備えが一の柵に取りつき、足軽が縄を切る。騎馬武者が崩れた隙間へ押し入り、二の柵へ迫った。織田・徳川の前衛は槍で受け止めようとしたが、鉄砲の援護を失った柵は、武田の圧力を長くは支えられなかった。 柴田勝家は本陣前で兵を立て直し、佐久間信盛は右翼を支えた。徳川方では本多忠勝(ほんだ・ただかつ)と榊原康政が前に出て、家康の本陣へ向かう武田勢を押し返した。雨で泥濘んだ地面は、攻める武田にも守る織田・徳川にも重くのしかかった。 やがて、信長のもとへ伝令が重なった。一の柵、破られる。二の柵、支えきれず。山県、なお健在。馬場勢、本陣方向へ進む。信長は床几から立ち、短く退却を命じた。鉄砲が沈黙した設楽原に、これ以上こだわる理由はなかった。 織田本隊は岡崎方面へ下がり、家康も兵をまとめて退いた。勝家と佐久間、徳川の本多忠勝が殿軍(しんがり)を務め、武田の深追いを抑えた。武田方は柵を破り、設楽原を押さえたが、雨と泥の中で隊列を大きく乱していた。勝頼は勝鬨を許しながらも、深追いを止めた。 翌日、武田勢は長篠城への圧力を強め、設楽原に残された柵を取り壊した。山県昌景は軽傷で済み、馬場信春も陣へ戻った。武田は重臣を欠かぬまま設楽原と長篠周辺を押さえ、三河東部の主導権を握った。奥平勢の長篠城は孤立し、勝頼は城の周りに番を置いて締め上げにかかる。織田・徳川は野戦での決着を諦め、家康は岡崎で兵を立て直し、信長は岐阜へ退いて鉄砲衆の再編と火薬の保管に取りかかった。武田は攻める側、織田・徳川は守る側に、この一日で立場が入れ替わった。 六月、争いの軸は設楽原の野戦から、三河東部の城と街道の押し合いへ移った。武田方は作手・野田の線に番を増やし、豊川沿いの道を扼して長篠への補給を断とうとする。対する家康は、岡崎と吉田を結ぶ後方の線を固め、東三河の国衆をつなぎ止めることに追われた。次に争われるのは、武田の楔が打ち込まれた作手・長篠の谷を、徳川がどこから押し返せるかである。岐阜の評定で、信長は濡れた火縄の束を机上に置かせ、鉄砲奉行たちに一本ずつ手に取らせた。乾いた指先が、湿って火を失った縄をたどっていった。

史実との差分

史実では長篠の朝は晴天で、信長の鉄砲集団運用が効果を発揮し、武田の精鋭は馬防柵の前で大きな損害を受けた。この if では雨天で火縄銃が機能不全に陥り、武田勢が柵を突破する。織田・徳川連合軍は岡崎方面へ退き、武田方は設楽原と長篠城周辺で主導権を得るが、信長・家康の主力は残る。

読者ノート

この分岐の大きな変化は、武田が単に勝つことではなく、山県昌景(やまがた・まさかげ)・馬場信春(ばば・のぶはる)ら重臣を大きく失わず、三河東部への圧力を保つ点にある。一方で、信長も家康も討ち取られていないため、戦国全体の決着はつかない。次の局面は、長篠での決戦から、岡崎・吉田を軸にした徳川防衛線と、信長の鉄砲運用の立て直しへ移る。

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