もし設楽原の馬防柵が築かれていなかったら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
織田信長は鉄砲だけでなく、防御陣地の構築にも長けていました。長篠の戦いでは、地形を活かした馬防柵の三重構造で武田騎馬隊を封じ込めました。
この場面で何が起きていた?
1575年5月、信長は長篠城救援のため設楽原に到着した数日のうちに、三重の馬防柵を築きました。柵の建設に必要な木材を兵に持たせて行軍させたとも伝わります。
史実ではこうだった
天正三年五月十八日、設楽原。
信長は長篠城救援のため、三万の大軍を率いて到着した。武田勝頼(たけだ・かつより)一万五千が長篠城を包囲しているとの報告だった。
信長が設楽原に布陣すると、すぐに大規模な普請が始まった。三重の馬防柵を築くのである。木材は織田軍の各兵が分担して運んできた。一兵あたり一本の杭を背負って行軍させたとも伝わる。
柵は連吾川沿いに築かれた。武田軍が騎馬で突入する際、柵に阻まれて減速した瞬間、後ろの鉄砲足軽が撃つ。理想的な防御陣形だった。
五月二十一日、武田勝頼は突撃を命じた。山県昌景(やまがた・まさかげ)、馬場信春(ばば・のぶはる)、内藤昌豊(ないとう・まさとよ)らの精鋭騎馬隊が突撃したが、柵に阻まれて速度が落ちた瞬間、鉄砲が一斉に火を吹いた。武田の重臣たちは次々と倒れた。
柵がなければこの戦術は機能しない。信長の勝利は鉄砲だけでなく、土木工事の力でもあった。武田家の精鋭はこの一日で消え、武田家は一五八二年に滅亡することとなる。
もしここが変わったら?
もし信長が設楽原に到着した時、馬防柵を築く時間が足りずに武田の突撃を受けていたら、武田騎馬隊は織田陣を蹂躙していた可能性があります。
今回の視点俯瞰視点
柵なき設楽原――鉄砲だけでは止まらぬ馬
天正三年五月、三河国設楽原。織田信長三万、徳川家康八千の連合軍は、長篠城救援のため連吾川沿いに布陣した。信長の腹案は明快であった。鉄砲足軽を並べ、武田の騎馬を馬防柵の前で減速させ、そこへ弾を浴びせる。鉄砲と柵が噛み合ってこそ、武田勝頼(たけだ・かつより)の突撃は止まる。
だが、普請は間に合っていなかった。木材は届いている。杭も縄もある。足軽たちは夜を徹して穴を掘り、丸太を立てようとしていた。けれど、連吾川沿いの地はまだ歯抜けの杭が並ぶばかりで、三重の馬防柵と呼べる形には遠かった。
本陣の信長は、床几(しょうぎ)から普請場を見た。佐久間信盛が膝を折り、あと二日あれば形にできると報告した。その二日は、もうない。物見が駆け込み、武田勢が医王寺山を発したと告げる。先鋒は山県昌景(やまがた・まさかげ)、続いて内藤昌豊(ないとう・まさとよ)、馬場信春(ばば・のぶはる)。勝頼本隊も動いている。
信長は短く息を吐いた。鉄砲三千丁はある。だが、柵がなければ、足軽は騎馬の突進を受けながら装填しなければならない。撃てるのは最初の一斉射まで。接近されれば、筒は槍にも盾にもならない。
「荷駄の車を倒せ。丸太は横に寝かせよ。鉄砲の後ろに長柄を重ねる」
指示は早かった。完成しない柵にこだわれば、兵を無駄に殺す。即席の障害物で時間を稼ぎ、鉄砲足軽を後ろへ逃がす余地を作るしかない。徳川家康には右翼を固めるよう伝令が走った。
やがて、武田方の喊声が連吾川の向こうから立ち上がった。山県の赤備えが水を蹴って前に出る。織田方の鉄砲が火を吹き、先頭の騎馬が崩れた。だが、二列目、三列目は倒れた味方を越えてなお進んだ。柵がない。馬は止まらない。
一の線が破れた。鉄砲足軽の列は乱れ、後ろの長柄足軽が槍を立てて受ける。佐久間信盛は右翼寄りで兵を立て直し、柴田勝家は本陣前に槍隊を厚くした。徳川勢も本多忠勝(ほんだ・ただかつ)、榊原康政らが前へ出たが、武田の圧力は消えない。
信長は戦場を見ていた。鉄砲は確かに働いている。撃てば武田の先頭は崩れる。だが、柵がないために次の隊がすぐ届く。火力と時間の間に、騎馬が割り込んでくる。信長はこの戦術の欠けた部分を、その日の設楽原で見せつけられた。
昼過ぎ、信長は本陣を後ろの丘へ下げた。逃げではない。鉄砲集団を残すための後退である。家康も岡崎方面へ退く用意を始めた。勝家と佐久間、本多忠勝が殿軍(しんがり)に立ち、武田の深追いを抑える。武田方も山県、馬場の隊に損害が出ており、勝頼は無理に追撃を広げなかった。
夕刻、設楽原の野には武田の旗がひるがえった。勝頼は連吾川沿いの戦場を押さえ、翌日には長篠城への囲みを締め直した。設楽原の主導権は武田の手に移り、三河東部の国衆は勝頼の使者を迎え入れ、旗色を武田へ傾け始めた。長篠から三河奥へ抜ける街道は、当面、勝頼が握る形となった。
六月、退いた家康は岡崎に入り、吉田城を後詰の要として、豊川沿いの線に兵を配り直した。信長は岐阜で普請奉行を呼び、柵材と鉄砲を同じ隊で運ぶ手順を組ませた。次の戦は設楽原ではない。勝頼が握った長篠と、家康が固める岡崎・吉田の間、豊川と山県街道をめぐる押し引きが、これからの争点になる。岐阜の広間では、地図の長篠に武田の旗印が置かれ、その先の岡崎へ向けて、信長が指で一本の街道をなぞっていた。
史実との差分
史実では信長は連吾川沿いに馬防柵を築き、武田の突撃を減速させたうえで鉄砲を効果的に運用した。この if では馬防柵の築造が間に合わず、鉄砲は機能するものの、武田の騎馬突撃を止めきれない。織田・徳川連合軍は岡崎方面へ退き、武田方は設楽原と長篠周辺で主導権を得る。
読者ノート
この分岐の焦点は、鉄砲そのものではなく、鉄砲を機能させるための防御陣地である。柵がなければ、火力は最初の一撃に偏り、装填の時間を稼げない。結末では、武田が重臣を大きく失わず主導権を保つ一方、信長は鉄砲と柵を一体運用するための普請・輸送体制を再設計する局面へ移っている。