もし武田勝頼が無理な突撃をせず撤退していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
武田勝頼(たけだ・かつより)は信玄の四男で、父の死後に武田家を継いだ武将です。武勇には優れていましたが、信玄ほどのカリスマと慎重さに欠けるとされていました。
この場面で何が起きていた?
1575年5月、長篠城の救援に向かった武田勝頼(たけだ・かつより)1万5千は、設楽原に布陣する織田・徳川連合軍3万8千と対峙しました。重臣の山県昌景(やまがた・まさかげ)・馬場信春(ばば・のぶはる)・内藤昌豊(ないとう・まさとよ)らは決戦回避を進言しましたが、勝頼は突撃を選びました。
史実ではこうだった
天正3年(1575年)5月20日、設楽原。
武田勝頼(たけだ・かつより)の本陣に重臣たちが集まっていた。山県昌景(やまがた・まさかげ)、馬場信春(ばば・のぶはる)、内藤昌豊(ないとう・まさとよ)――父・信玄が信頼した『武田四天王』の生き残りである。
眼前の設楽原には、織田・徳川連合軍3万8千が布陣していた。馬防柵が三重に築かれ、その後ろには鉄砲を構えた足軽が並んでいる。武田は1万5千。地形も敵に有利だった。
『撤退すべきです』山県が進言した。『信玄公ならば、必ずお退きになりました』
馬場信春も同意した。『この陣形は罠です。柵に遮られて騎馬隊は機能しません』
だが勝頼は決戦を選んだ。長篠城を見捨てれば武田の威信が失われる。父の死後、家中をまとめるために勝利が必要だった。
5月21日早朝、武田騎馬隊は突撃した。鉄砲の交互射撃と馬防柵に阻まれ、精鋭は次々と倒れた。山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟ら、武田家の重臣の多くが戦死した。
この戦いで武田家の精鋭騎馬軍団は実質的に消滅。勝頼は甲府へ撤退したが、武田家は二度と立ち直れなかった。1582年、武田家は滅亡する。
もしここが変わったら?
もし勝頼が重臣たちの進言を受け入れて撤退していたら、武田家の精鋭は温存され、織田・徳川との対決は別の形になっていたかもしれません。
空の設楽原――武田勝頼(たけだ・かつより)、長篠を退く
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天正三年五月二十日、設楽原。織田信長は本陣の床几(しょうぎ)に腰を下ろし、連吾川の向こうを見ていた。三重に組まれた馬防柵の後ろには、鉄砲を持つ足軽が幾重にも並ぶ。柵の杭は前夜までに打ち直され、川岸の低地は人の足を取る泥となっている。徳川家康の軍勢と合わせ、兵は三万を大きく超える。対する武田勝頼(たけだ・かつより)は一万五千ほど。地形、兵数、火力、いずれも織田・徳川に利があった。
それでも信長の表情は緩まなかった。武田の本陣には山県昌景(やまがた・まさかげ)、馬場信春(ばば・のぶはる)、内藤昌豊(ないとう・まさとよ)ら、信玄以来の宿老がいる。あの者たちは、柵と鉄砲を見れば、突撃の危うさを必ず読む。勝頼が若さに任せて出るなら一日で勝てる。だが、宿老たちの言を容れれば、武田は傷を負わずに退く。信長は床几の上で扇を畳み、敵がどちらに転ぶかを静かに測っていた。
武田の陣では、その通りの軍議が続いていた。山県は決戦回避を進言し、馬場は退き口の手筈まで述べた。内藤は、長篠城は惜しいが、宿老と精鋭を失えば甲斐そのものが痩せると説いた。勝頼はしばらく黙した。家中をまとめるには勝利が要る。だが、父信玄が信じた者たちが、そろって退けと言っている。重い沈黙の末、勝頼は退却を選んだ。
申の刻に近いころ、徳川方の物見が戻った。武田勢が長篠城の囲みを解き、東へ退き始めたという。家康の使番も同じ報せを携えてきた。鳶ヶ巣山方面へ向かった酒井忠次(さかい・ただつぐ)の別働隊からも、武田の後退が確認された。退き口は乱れず、殿軍(しんがり)の旗が秩序を保って動いているという。
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織田本陣に追撃を求める声が上がった。徳川家臣の中には、退く敵を討つべきだと逸る者もいる。だが信長は許さなかった。柵と鉄砲で待つための陣は、山中へ踏み込めば力を失う。追えば、武田の宿老たちが用意した退き口にこちらが吸い込まれる。信長は短く制し、馬防柵の線から兵を出すなと命じた。
夕刻、長篠城の奥平信昌が救援に礼を述べに来た。籠城の疲れがその顔に濃く残っていた。城は守られた。武田は退いた。表向きには、織田・徳川の勝ちである。だが、山県、馬場、内藤はまだ生きて甲斐へ帰る。武田の騎馬も、鉄砲の前で倒れずに済んだ。信長は礼を受けながらも、討ち損じた手応えのなさを胸の底に沈めていた。
翌日、家康は長篠城へ兵糧を入れ、岡崎・浜松へ続く連絡を改めさせた。信長は設楽原の陣を払うと、岐阜へ戻る支度を始めた。本願寺との戦はなお終わらず、越前方面にも兵を向けねばならない。武田を一日で削るはずだった場は、人も馬も倒れぬまま、何も踏み荒らされずに残った。
六月、勝頼は甲斐へ戻り、山県・馬場・内藤を交えて三河・遠江の次策を練った。長篠城は失ったが、武田の指揮中枢は失われていない。信長は岐阜の評定で、家康に長篠・岡崎の守りを厚くするよう伝え、自らは西の戦線へ目を戻した。連吾川沿いの馬防柵は、敵を砕くためではなく、砕けなかった敵がなお東に残ることを示す木組みとして、片付けられぬまま夕風に鳴っていた。
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史実との差分
史実では勝頼が撤退進言を退けて突撃し、武田は山県昌景(やまがた・まさかげ)・馬場信春(ばば・のぶはる)・内藤昌豊(ないとう・まさとよ)ら重臣と精鋭を一日で大きく失った。この if では勝頼が宿老の進言を受け入れて撤退し、長篠城救援は成功するが、武田の主力は温存される。織田・徳川は決定的勝利を得られず、以後は三河・遠江方面で武田の圧力が残る。
読者ノート
この分岐の焦点は、武田が勝つことではなく、武田が壊滅を避けることにある。長篠城は徳川方に残るが、武田の宿老と騎馬戦力が生き残るため、史実のように武田家の衰退が一気に進まない。次の局面は、設楽原の決戦ではなく、長篠・岡崎・浜松をめぐる持久戦へ移る。