もし昌幸が東西どちらにもつかず、中立を保っていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
真田昌幸は、大勢力の間で旗色を巧みに変えて生き延びてきた「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」でした。どちらにもつかず様子を見るのも、彼の選択肢のひとつでした。
この場面で何が起きていた?
1600年、犬伏(いぬぶし)の評議で去就を談合した真田父子。東軍か西軍か――だが、あえてどちらにもつかず、上田に拠って中立を保ち、情勢を見極めるという第三の道も考えられました。
史実ではこうだった
慶長五年七月、犬伏(いぬぶし)。
真田昌幸の前には、いくつもの道があった。東軍につくか、西軍につくか。そして、どちらにもつかず様子を見るか。
大勢力の間を渡り歩いてきた昌幸にとって、旗幟を曖昧にして時を稼ぐのは、慣れた手でもあった。上田の堅城に拠り、東西の勝敗が見えるまで動かず、勝者へなびく――。
だが、天下を二分する戦は、これまでの小競り合いとは違った。曖昧な態度は、勝者から不忠と見なされる。東にも西にも与せぬ者は、いざ勝敗が決したとき、どちらの後ろ盾も得られず孤立する。
史実の昌幸は、中立ではなく「分裂」を選んだ。一族を東西に分け、どちらが勝っても家名が残るようにしたのである。様子見の危うさを、誰よりも知っていたがゆえの選択であった。
旗を掲げぬことの危うさと、掲げることの覚悟。犬伏の夜、昌幸はそのはざまで家の行く末を測っていた。
もしここが変わったら?
もし昌幸が東西どちらにもつかず中立を保っていたら、当面は敵を作らずに済む一方、天下分け目で旗幟を曖昧にした咎めを受け、真田は孤立して立場を失っていたかもしれません。
旗を掲げぬ者――真田昌幸、上田に拠りて天下の趨勢を測る
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慶長五年七月、下野・犬伏(いぬぶし)。会津の上杉征伐に従っていた真田の陣に、石田三成挙兵の報が届いた。真田昌幸は長男・信幸、次男・信繁を呼び、去就を談合した。
信幸は妻が徳川重臣の縁にあり、東軍に残ると述べた。信繁は妻が西軍の縁にあり、三成に与すべきだと説いた。だが昌幸は、いずれの言にもうなずかなかった。東につけば西を敵に回し、西につけば東を敵に回す。どちらに賭けても、外れれば真田は滅ぶ。武田が滅びてからこのかた、織田に、北条に、徳川に、上杉に、昌幸は旗の色を幾度も変えて生き延びてきた。勝つ側へなびくのが術ならば、勝つ側が見えるまで旗を掲げぬのが、最も賢い手のはずであった。
「いま旗を掲げるは早い」と昌幸は言った。「上田に拠り、東西の勝敗が見えるまで動かぬ。勝つ側を見極めてから、そちらへなびけばよい」。大勢力の間を渡り歩いてきた昌幸にとって、旗幟を曖昧にして時を稼ぐのは慣れた手であった。信幸は父の曖昧さに焦れたが、昌幸の肚は決まっていた。
昌幸は陣を払い、信幸も信繁も伴って信濃へ戻った。家を東西に分けることもせず、ただ上田の堅城に一族をまとめ、門を閉ざした。徳川秀忠が中山道を西へ進む途上、上田へ使いを送って参陣を促したが、昌幸は病と称して動かず、さりとて敵対もしなかった。三成方からの誘いにも、確たる返答を避けた。
秀忠は苛立ったが、上田を攻めれば手痛い損害を覚悟せねばならぬことは、十五年前の戦で徳川がよく知っていた。城を遠巻きにして西へ急ぐほかなかった。昌幸は城内から、東西の軍が美濃へ集まるさまを眺め、勝者へなびく好機をうかがった。物見を放ち、戦況の報せを待ち、その瞬間に使者を立てる――それが描いた絵図であった。
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だが、天下を二分する戦は、これまでの小競り合いとは違った。
九月十五日、関ヶ原の戦いは一日で決した。東軍の勝利であった。昌幸が勝者を見極め、徳川へ使者を立てようとしたときには、もう遅かった。なびく相手を測っているうちに、なびく時を失っていたのである。
勝者となった徳川家康は、上田の真田を不忠の者と見た。東軍に従えと促されながら兵を出さず、さりとて西軍として旗を掲げて戦ったわけでもない。家康にとって、戦の趨勢を眺めて去就を売り惜しんだ態度こそ、最も信を置けぬものであった。家中に残った信幸が父の助命を懸命に願ったが、家康の沙汰は厳しかった。
真田は東にも西にも頼れなかった。西軍は敗れ、頼るべき後ろ盾は崩れた。東軍からは、勝ってから擦り寄った日和見と見なされた。昌幸の所領は大きく削られ、上田の城も明け渡しを命じられたと伝えられる。表裏比興(ひょうりひきょう)と恐れられた知将の狡知は、天下分け目の場では、ついに掲げる旗を選べぬまま空転した。
信濃の山城に拠って、昌幸は最後まで動かずに生き延びた。だが、生き延びた先に残ったのは、削られた所領と、東西どちらの将からも信を置かれぬ孤立であった。旗を掲げぬことの危うさを、誰よりも知っていたはずの男が、その危うさのただ中に取り残された。信幸が徳川のもとで真田の名を細々と守るほか、頼みの綱はなかった。上田の門は閉ざされたまま、真田の行く末はなお、霧の中にあった。
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史実との差分
史実では昌幸は犬伏(いぬぶし)で一族を東西に分け、自らは信繁とともに西軍につき、第二次上田合戦で徳川秀忠の大軍を足止めした。この if では昌幸はどちらにも旗を掲げず、上田に拠って中立・日和見を決め込む。だが関ヶ原が一日で東軍勝利に決したため、なびく相手を測るうちに時を失い、徳川から旗幟不鮮明を不忠と咎められて所領を大きく削られる。
読者ノート
この分岐の焦点は、中立を保てば敵を作らずに済む、という話ではない。当面はどちらの敵にもならないが、天下分け目の戦が早期に決すると、態度を曖昧にしたこと自体が勝者から咎められる。次の局面は、東西を相手に戦う独立勢力としての真田ではなく、どちらにも頼れず孤立した真田が、削られた所領でどう生き残るかへ移る。