真田昌幸

さなだ まさゆき

1547年 〜 1611

真田幸隆(さなだ・ゆきたか)の三男。はじめ武田信玄に近習として仕え、武藤家を継いで武藤喜兵衛(むとう・きへえ)と名乗った。1575年の長篠の戦いで兄・信綱と昌輝が戦死したため、真田家の家督を継ぐ。武田氏滅亡後は、織田・北条・徳川・上杉といった大勢力の間を巧みに渡り歩き、小領主ながら独立を保った。その変わり身の早さと知略から「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と評される。上田城を築き、第一次上田合戦(1585)では徳川の大軍を寡兵で撃退。関ヶ原(1600)に際しては犬伏(いぬぶし)で一族を東西に分け、自らは次男・信繁(幸村)とともに西軍につき、第二次上田合戦で徳川秀忠の大軍を足止めした。戦後は高野山麓の九度山(くどやま)へ配流され、再起を期しながら1611年に没した。戦国屈指の知将として名高い。

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年表

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  • 1547甲斐に真田幸隆の三男として生まれる
  • 1553武田信玄に近習として仕え、武藤家を継いで武藤喜兵衛を名乗る
  • 1575長篠の戦いで兄・信綱と昌輝が戦死し、真田家の家督を継ぐ
  • 1582武田氏滅亡。織田・北条・徳川・上杉の間を渡り歩いて独立を保つ
  • 1583上田城を築く
  • 1585第一次上田合戦で徳川の大軍を寡兵で撃退する

    天正13年(1585年)、真田昌幸がわずかな兵で上田城に拠り、沼田(ぬまた)領をめぐって攻め寄せた徳川の大軍を撃退した戦い。

    史実

    1585年、真田昌幸は徳川家康に従っていたが、家康が北条氏との和睦の条件として真田の沼田(ぬまた)領を北条へ引き渡すよう命じると、昌幸はこれを拒んで徳川から離反し、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)を頼った。怒った家康は約7000の軍を上田へ差し向けたが、昌幸は2000ほどの寡兵で上田城に拠り、城下や街道に敵を誘い込んで伏兵と鉄砲で痛撃を与え、徳川軍を撃退した。この勝利で昌幸の知略は天下に知られ、上田城は容易に落ちない堅城としての名を得た。沼田領をめぐる徳川との対立は、のちの小田原征伐に際して秀吉の裁定で一応の決着をみるが、真田が徳川の大軍に屈しなかったこの戦いは、15年後の第二次上田合戦の前史となった。

  • 1600犬伏の別れ。一族を東西に分け、自らは次男・信繁(幸村)とともに西軍につく

    慶長5年(1600年)、関ヶ原を前に下野・犬伏(いぬぶし)で、真田昌幸・信幸(信之)・信繁(幸村)の父子が去就を談合し、真田家を東西に分けることを決めた評議。

    史実

    1600年、会津の上杉征伐に従軍していた真田父子のもとに、石田三成挙兵の報が届いた。下野・犬伏(いぬぶし)の陣で、昌幸・長男信幸・次男信繁は今後の去就を談合する。結論は、一族を東西に分けることだった。長男・信幸は妻が徳川重臣・本多忠勝(ほんだ・ただかつ)の娘であり、徳川方(東軍)に残った。昌幸と次男・信繁は、妻が大谷吉継(おおたに・よしつぐ)の娘であり、また反徳川の立場から西軍についた。これは真田家がどちらが勝っても存続できるよう図った「家の保険」とも、それぞれの信義に基づく選択とも語られる。父子は袂を分かち、昌幸・信繁は上田へ戻って第二次上田合戦で徳川秀忠を足止めし、信幸は東軍として戦った。関ヶ原は東軍が勝利し、昌幸・信繁は九度山(くどやま)へ配流されたが、信幸が真田家の家督と所領を継いで家名を後世へ伝えることになる。

  • 1600第二次上田合戦で徳川秀忠の大軍を上田城に足止めする
  • 1600関ヶ原後、高野山麓の九度山に配流される
  • 1611九度山で病没(享年65)
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