もし信玄が病に倒れず、京へ進軍していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
武田信玄は1572年、52歳で生涯最大の遠征『西上作戦』を開始しました。京の織田信長を打倒し、足利将軍を奉じて天下に号令することを目指した、信玄渾身の一手でした。
この場面で何が起きていた?
1572年12月、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を撃破した信玄は、京への道を順調に進んでいました。信長は浅井・朝倉、本願寺、足利義昭との対立で四面楚歌の状態にあり、信玄の西上は信長包囲網の最大の希望でした。
史実ではこうだった
元亀3年(1572年)10月、武田信玄は2万5千の軍勢を率いて甲府を出立した。西上作戦の始まりである。
織田信長は当時、四面楚歌の状況にあった。浅井・朝倉が北から、本願寺が大坂から、足利義昭が京で離反を画策し、武田が東から迫る。信長の生涯で最大の危機だった。
信玄の進軍は順調だった。12月22日、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を完膚なきまでに撃破する。家康はわずかな供回りとともに浜松城へ逃げ帰り、自らの惨めな姿を絵師に描かせて生涯の戒めとした(『しかみ像(しかみぞう)』)。
しかし、年が明けて元亀4年(1573年)の春、信玄は陣中で吐血した。持病が悪化していた。信玄は野田城を落とした後、進軍を止め、療養のため一時撤退を決めた。
4月12日、信濃駒場(現・長野県下伊那郡阿智村)で信玄は没した。享年53。死因は肺結核とも胃癌とも言われる(諸説あり)。
信玄は遺言で自身の死を3年間秘するよう命じたが、信長はやがてそれを察知した。『天下の儀、もはや案ずるに足らず』――信長は喜んだという。
信玄が消えた天下は、信長のものになった。
もしここが変わったら?
もし信玄が病に倒れず西上を続けていたら、信長との直接対決が起き、天下統一の歴史は根本から変わっていたかもしれません。
西へ――信玄、東美濃を押さえる
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元亀四年四月、三河野田城の周辺には、まだ戦の匂いが残っていた。武田信玄は、前年十月に甲府を発って以来、遠江・三河を押し通り、三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破り、二月には野田城の水の手を断って落とした。その後も西へ留まり、すでに長い遠征であった。
陣中では、信玄の体を案じる声が絶えなかった。夜ごとの咳は消えず、食も細い。それでも信玄は甲斐へ引き返さなかった。馬場信春(ばば・のぶはる)、山県昌景(やまがた・まさかげ)、内藤昌豊(ないとう・まさとよ)ら重臣は、主君の体と軍の進路を同時に測らねばならなかった。
軍議で争点となったのは、三河をさらに押して岡崎を脅かすか、岩村を起点に東美濃へ圧をかけるかであった。岡崎へ向かえば家康を屈服させる道が開ける。だが、徳川を追い詰めすぎれば、信長が援軍を送る口実にもなる。東美濃へ進めば、岐阜の背後を揺らし、信長を京と美濃の間に縛りつけられる。
信玄は岩村筋を選んだ。秋山信友が押さえる岩村を支点とし、伊那から東美濃へ兵と兵糧を通す。山県昌景には三河口を牽制させ、馬場信春には岩村周辺の道と城を固めさせた。家康を浜松・岡崎に釘付けにし、信長には岐阜の東を意識させる。京へ進むために、まず信長の足を止めるのである。
同じころ、京の信長は包囲網の中にいた。足利義昭は槇島で反信長の檄を飛ばし、大坂の本願寺は門徒を集め、浅井長政と朝倉義景は北近江から機をうかがう。そこへ、武田が野田から退かず、東美濃へ本陣を寄せたとの報が届いた。
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信長は兵を割かざるを得なかった。佐久間信盛には三河・尾張方面への備えを命じ、明智光秀には義昭との交渉を急がせ、柴田勝家には北近江の動きを見張らせた。岐阜を空にすれば武田が迫る。京を空にすれば義昭が動く。北を放れば浅井・朝倉が出る。信長の地図には、赤い印が三方から増えていった。
五月、武田の先手は岩村を拠点に、東美濃の国衆へ起請文を求め始めた。従う者には本領安堵を約し、様子を見る者には兵を見せた。信玄は伊那の本陣から書状を飛ばし、義昭、本願寺、朝倉へ重ねて動きを促した。武田だけが前へ出れば、信長は耐える。だが包囲網が同時に動けば、信長はどこかで兵を薄くせざるを得ない。
それでも、包囲網の動きは鈍かった。義昭は名分を求め、本願寺は門徒の時機を測り、朝倉は雪の残る北陸路を理由に兵を出し渋った。信玄はその報を聞き、灯明の下で長く黙った。天下を動かすには、誰かが先に傷を負う覚悟を示さねばならない。
六月、武田は岩村から恵那口へ番を増やし、三河では山県の赤備えが岡崎方面をうかがった。家康は浜松と岡崎の連絡を保つだけで手いっぱいになり、信長は岐阜へ兵を寄せつつ、京の義昭を抑える使者を送り続けた。
京はまだ遠い。信玄も信長も、まだ互いの首を取ってはいない。だが、駒場(こまんば)で武田の軍旗が折れることはなかった。岩村、伊那、岡崎、槇島、北近江。戦場は一つではなく、信長を取り巻く複数の道へ広がった。信玄は伊那の陣で地図を広げ、京へ向かう線ではなく、まず岐阜の背後を締める線を太く引かせた。
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史実との差分
史実では1573年4月に信玄が信濃駒場(こまんば)で病没し、武田軍は西上作戦を中止して撤退した。この if では信玄が病没せず、野田城後も軍を退かせない。武田は岩村・伊那を軸に東美濃を圧迫し、三河では家康を牽制する。信長は義昭、本願寺、浅井・朝倉、武田を同時に相手取ることになり、史実よりも包囲網の圧力が長く残る。
読者ノート
この分岐では、信玄が生きているだけで即座に京へ入るとは描いていない。長期遠征、補給、信玄の体調、家康を後背に残す危険を考えると、まず東美濃・三河・岩村を使って信長の行動を縛る方が自然である。次の局面は、京入城そのものではなく、岩村・伊那・岡崎・槇島・北近江が連動する包囲網の持久戦へ移る。