もし半兵衛が兵糧攻めではなく、力攻めを秀吉に進言していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
竹中半兵衛は、力ずくの戦いよりも、無理のない攻め方で勝ちを収めることを得意とする知将でした。堅城・三木城をどう攻めるかは、彼の軍略が問われる場面でした。
この場面で何が起きていた?
別所長治(べっしょ・ながはる)の籠もる三木城は堅固で、力攻めすれば大きな犠牲が出ます。半兵衛は黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)とともに、城の補給路を断ってじわじわと干上がらせる兵糧攻め『三木の干殺し(ほしごろし)』を進めました。これは約2年に及び、城兵や領民に凄惨な飢えをもたらしました。
史実ではこうだった
天正六年、播磨。
三木城は、堅かった。別所長治(べっしょ・ながはる)の籠もるこの城を前に、竹中半兵衛は軍議で腕を組んでいた。力攻めにすれば、城は抜けても味方の屍が山と積まれる。半兵衛の性に、無駄な血は合わなかった。
史実の半兵衛は、黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)とともに兵糧攻めを選んだ。城を幾重にも付城(つけじろ)で囲み、補給路を断ち、ひたすら干上がるのを待つ。世に言う『三木の干殺し(ほしごろし)』である。戦は二年近くに及び、城内では兵も領民も草木を食み、凄惨な飢えが城を覆った。長治はついに、城兵の助命と引き換えに自刃する。
だが、もし半兵衛が、この長い兵糧攻めを避け、早期の力攻めを進言していたら――。
秀吉がそれを容れ、付城の構えを攻めの陣に組み替える。鉄砲隊で城兵を狩り立て、堀を埋め、力ずくで三木の城壁に取りつく。城は短期で落ちるが、その代償は重い。堅城への強襲は織田方の将兵を多く倒し、秀吉は中国戦線の貴重な兵力をここで削られる。
飢えて死ぬ領民は減る。だが、矢弾に倒れる兵が増える。どちらの犠牲を選ぶか――半兵衛の進言一つで、三木の城下に流れる血の色は変わる。そして早期に三木を片づけた秀吉の軍は、史実とは違う早さで、次の毛利との対陣へと向かっていったであろう。
もしここが変わったら?
もし半兵衛が兵糧攻めではなく早期の力攻めを進言していたら、三木城は短期で落ちる代わりに織田方も大きな損害を被り、その後の中国戦線の歩みも史実とは違う展開になっていたかもしれません。
もし半兵衛が三木城に兵糧攻めではなく力攻めを進言していたら
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天正六年の秋、東播磨の野に羽柴秀吉の陣旗がはためいていた。別所長治(べっしょ・ながはる)の籠もる三木城は、いくつもの丘陵を抱き込み、谷を堀とした堅城である。攻めの常道なら、付城(つけじろ)を連ねて道という道をふさぎ、城兵を干し殺す。それが竹中半兵衛重治の胸の内に最初に描かれた絵であった。長く、静かで、血の少ない策。
だが、この日、半兵衛は秀吉の床几(しょうぎ)の前で別の言葉を口にした。長陣は中国筋の他の城を生かし、毛利に時を与える、と。播磨に二年も釘付けにされれば、信長の下知に応えられぬ。ならば毛利の援軍が動く前に、三木を一気に潰す。半兵衛は囲みの果てに飢えた領民が草木の根を掘り、馬の革を煮る光景を誰よりも厭うていた。それを避けるなら、短く攻め、短く終えるしかない。秀吉は腕を組み、しばし黙したのち、力攻めの下知を与えた。
攻めの段取りは速やかに組み替えられた。囲みの陣は寄せの陣となり、鉄砲足軽が前へ繰り出された。半兵衛は黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)と図を広げ、丘の傾きと水の流れを指でなぞりながら、堀の浅い東の口を第一の取りつき口と定めた。西と南の険しい斜面には備えだけを置き、寄せ手の力を東へ集める。竹束を盾に鉄砲隊が城壁の狭間を狙い撃ち、城兵が顔を出すたび弾を浴びせて頭を下げさせる。その間に人足が土俵と柴を投げ込み、谷をなす堀を少しずつ埋めていく。城内からも矢弾が降り注ぎ、寄せ手の足軽が次々と泥の中へ倒れた。半兵衛は持病の咳をこらえながら、攻め口の動きを一刻ごとに読み、疲れた組と新手の組を入れ替えるよう細かに指図した。無理に押せば味方の屍が積み上がるだけだと、彼は痛いほど知っていた。
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三日目の払暁、埋め立てた堀を越えて寄せ手が城壁へ取りついた。長梯子がかけられ、攻め口は前夜の雨と流れる血で滑った。別所方も死力を尽くして梯子を突き落とし、頭上から石と熱湯を落とし、織田方の手負いは見る間に増えていく。取りついた足軽の幾人かは城壁に手をかけたまま射抜かれ、声もなく谷へ落ちた。半兵衛は陣中で損兵の数を記す帳面を見つめた。飢えで死ぬ者は減った。だが、矢弾に裂かれて死ぬ味方がこれほど出るとは。長く囲んで干せば領民が枯れ、短く攻めれば兵が散る。二つの犠牲は、どちらも決して軽くはなかった。彼は咳の合間に、これでよかったのかと一度だけ自らに問うた。
五日目、東の郭がついに破られた。別所長治は本丸へ退き、城兵の助命を条件に降を通そうとしたが、力攻めの最中では降の使者も届きにくい。乱戦のなかで火がかかり、二の丸の櫓が焼け落ちた。鬨の声と火の粉が、三木の空をなお焦がした。
城は短期で落ちた。別所長治は本丸で自刃し、籠もった侍の多くが討ち死にした。だが助命を願い出た城兵の一部と城下の領民は、二年に及ぶ囲みの飢えを知らぬまま、生きて城を出ることができた。一方、織田方は三木の攻略に多くの将兵を失い、秀吉の手元に残る兵は目に見えて目減りした。半兵衛は焼け跡の城を見上げ、削られた兵力でこの先の中国筋をいかに支えるかを思案した。三木は落ちた。次に待つのは、削られた手勢を抱えての、毛利との長い対陣であった。
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史実との差分
史実では半兵衛・官兵衛は堅城への力攻めを避け、付城(つけじろ)で囲む兵糧攻め(三木の干殺し(ほしごろし))を進めた。約二年に及ぶ囲みで城兵・領民が凄惨な飢えに陥り、天正八年に別所長治(べっしょ・ながはる)が城兵の助命と引き換えに自刃した。本作では半兵衛が早期の力攻めを進言し、秀吉がこれを容れて天正六年内に強襲、城は短期で落ちる代わりに織田方が将兵を多く失う。
読者ノート
兵糧攻めと力攻めは「誰が、どのように犠牲になるか」の選び方が異なります。干殺し(ほしごろし)は領民を飢えさせ、力攻めは寄せ手の兵を矢弾で失います。半兵衛の軍略観(無駄な血を好まない)が、どちらの犠牲を重く見るかという緊張の中で揺れる場面に注目してお読みください。