もし信長がこの混乱に乗じて、即座に美濃へ攻め込んでいたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

竹中半兵衛による稲葉山(いなばやま)城乗っ取りは、斎藤家の屋台骨が揺らいでいることを天下に示しました。この動揺を、隣国・尾張の織田信長は決して見逃しませんでした。

この場面で何が起きていた?

永禄7年、半兵衛が稲葉山(いなばやま)城を奪い、当主・斎藤龍興(さいとう・たつおき)が一時城を追われたことで、斎藤家中は大きく動揺しました。史実では信長が美濃を平定するのは3年後でしたが、この混乱はまさに侵攻の好機でもありました。

史実ではこうだった

永禄七年、尾張・小牧山。 織田信長のもとへ、隣国美濃の報せが飛び込んだ。斎藤龍興(さいとう・たつおき)の居城・稲葉山(いなばやま)が、わずかな手勢に乗っ取られた――竹中半兵衛なる者の仕業だという。当主は城を追われ、家中は上を下への騒ぎとなっている。 信長の目が、鋭く光った。長良川の向こう、難攻不落と謳われる稲葉山。父の代から幾度も跳ね返されてきたあの城が、今、内側から揺らいでいる。これほどの好機が、またとあろうか。 だが、信長はここでは動かなかった。半兵衛はやがて城を返し、斎藤家は形だけ立ち直り、信長が美濃を平定するのは三年も後のことになる。その三年は、信長の天下への歩みを、確かに遅らせた。

もしここが変わったら?

もし信長が稲葉山(いなばやま)城乗っ取り直後の混乱に乗じて即座に美濃へ攻め込んでいたら、美濃平定は3年早まり、その後の上洛と天下取りの歩みも前倒しになっていたかもしれません。

今回の視点俯瞰視点

内から揺れた堅城――信長、三年を待たず美濃の入口に立つ

永禄七年の早春、稲葉山(いなばやま)城は内側から崩れた。竹中重治(たけなか・しげはる)がわずか十数名を率いて城へ入り、当主斎藤龍興(さいとう・たつおき)を一夜のうちに城外へ追ったのである。重治の狙いは奢れる主を諫めることにあり、領地を奪うつもりは微塵もなかった。だが当主が一介の家臣に難攻不落の堅城を奪われたという事実は、重治の意図を越えて美濃じゅうを駆け巡った。報は山を越え、川を渡り、西美濃の国衆たちの耳へ次々と届いた。 尾張小牧山の信長は、その報をしばし黙して聞いた。家中の多くは「斎藤の内輪のもめごと」と見て静観を説いた。下手に手を出せば諸国衆の反感を買うとも言った。だが信長は違った。外から幾度攻めても抜けなかった堅城が、内から自ら揺れた今こそ千載一遇の好機だと見抜いたのである。信長は評定を待たず出陣を命じた。三日のうちに尾張勢は木曽川を越え、隊伍を整えて西美濃へ向けて軍を進めた。 動揺はすでに斎藤家中を深く蝕んでいた。重治が程なく城を龍興へ返したとはいえ、当主の威信は一度割れた器のように戻らなかった。城へ戻った龍興のもとから、西美濃の国衆は静かに離れていった。安八郡や本巣のあたりでは、織田の旗へなびく者が相次ぎ、ある城主は使者を小牧山へ送って降を申し出た。城を力で抜くより先に、人の心が織田へ傾いていったのである。 信長は木曽川と長良川に挟まれた洲のあたりに足場を築かせ、川向こうの稲葉山を望む位置まで軍を押し上げた。なびいた国衆が道案内に立ち、尾張勢は西美濃の小城をひとつ、またひとつと抜いていった。火縄銃を抱えた足軽の列が街道を埋め、上級の武士のみが馬上から下知を飛ばした。外から迫る織田と、内から揺らいだ斎藤。両者の間で去就を測りかねた国衆は、ある者は織田へ走り、ある者は門を固く閉ざして様子をうかがった。
龍興のもとには、なお踏みとどまる譜代の将もいた。長良川の急流を盾とし、稲葉山の険を恃みとすれば、たとえ織田の大軍とて容易には抜けまい。そう説く声もあった。だが城を一度奪われたという傷は、戦の前にまず人を疑わせた。誰が裏で織田と通じているのか。隣の城主の沈黙は降伏の前触れではないのか。疑心が陣中をめぐり、固めるべき守りの手はずがいくども組み替えられた。重治はすでに政の表から身を引き、騒ぎから遠く離れた。諫めるべき主はもはや、外敵よりも己の家中を恐れていた。 この即断で、美濃の重心は乗っ取りの一夜を境に斎藤から織田へと大きく傾いた。安八郡の城のいくつかはすでに織田の手に落ち、墨俣から北へ延びる街道は尾張勢の旗で埋まった。人の心が先になびき、城はそのあとから開いていく。龍興が稲葉山に籠もって長良川の線に踏みとどまろうとするその背後で、西美濃はもはや斎藤の掌を離れつつあった。信長は三年を待たず、美濃の入口へ立ったのである。 次に争われるのは、稲葉山の城内の結束ではなく、長良川の渡河点そのものとなった。信長は木曽川と長良川に挟まれた洲に足場を築き、なびいた国衆を先手に立てて浅瀬を探らせる。龍興は残る譜代を長良の急流の線に張りつけ、堅城の険を最後の頼みとした。城下では、去就を織田へ売る者と門を固く閉ざす者とに国衆が割れ、疑心が斎藤の陣を内から蝕んでいく。天下取りの時計の針は、誰の意図でもなく、長良川の渡し場をめぐる攻防へ向けて確かに動き始めた。

史実との差分

史実では信長が美濃を平定するのは永禄10年(1567年)で、稲葉山(いなばやま)城乗っ取りの約3年後である。重治はやがて城を龍興へ返し、斎藤家は形だけ立ち直った。このifでは信長が乗っ取り直後の動揺を逃さず即座に出陣し、3年を待たずに美濃の入口へ達した点が史実と異なる。

読者ノート

このストーリーは「内側から揺らいだ堅城を、外から突く好機」を中立の三人称で描いています。信長の即断、斎藤家中の動揺、なびく国衆という三つの力学が、どのように天下取りの時計を早めたのかを俯瞰してお読みください。

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