永禄七年、春の浅い朝であった。井ノ口(いのくち)の谷を見下ろす稲葉山(いなばやま)の城の本丸には、わずか十六、七人の手勢が立ち並んでいた。竹中半兵衛重治が奇略をもって主君斎藤龍興(さいとう・たつおき)の居城を奪い取ってから、すでに幾日かが過ぎている。城内の兵糧蔵には味噌と干飯(ほしいい)、玄米の俵が積まれ、奪った城を守る者どもの腹を満たしていた。
城を返すか、腰を据えるか。重治はその一点に思い惑っていた。もともとの狙いは領地でも謀反でもなく、酒色に溺れ佞臣を重んじる暗愚な龍興を諫めることにあった。城を明け渡せば筋は通る。だが、明け渡した先で龍興が再び惰弱に流れれば、美濃の国は東から窺う織田信長の手に、易々と落ちるであろう。重治の胸には、その懸念が重く沈んでいた。
義父である安藤守就(あんどう・もりなり)が、西美濃から早馬を寄越してきた。守就は西美濃三人衆の一として大垣に近い所領に勢力を張る男であり、その言葉には重みがあった。曰く、龍興に城を返すは飢えた犬に骨を投げるに等しい、いっそ重治が美濃の柱となれ、と。早馬の使者は息を切らし、本丸の板間に膝をついて義父の意を伝えた。
重治は長く黙していた。無欲をもって筋を通すことを身上とする彼にとって、城を握り続けることは己の信条を裏切るに近い。一夜、彼は本丸の縁に出て、井ノ口の家々から立ちのぼる炊煙を眺めた。あの煙の下には、戦に怯える町人や、わずかな雑穀(ざっこく)で命をつなぐ者がいる。龍興の佞政が続けば、彼らはやがて織田の兵火に焼かれるであろう。だが、佞臣斎藤飛騨守らに操られる龍興の政では、領民も国衆も救われぬ。彼はついに、城を返さぬと決した。諫めの奇略は、美濃の主導権を賭けた長い戦いへと、その姿を変えたのである。
重治はただちに手勢を割り、城門の固めを厚くした。稲葉山は天嶮の城であり、少数でも守りやすい。彼は配下に命じて領内の道筋を検め、敵勢がいずれの口から攻め寄せるかを読んだ。鉄砲の数はわずかであったが、要所の狭間に据えれば寄せ手を怯ませるに足る。守城の段取りは、奇襲で城を奪った時とはまるで異なる、地に足のついた構えであった。
決断は速やかに国中へ広がった。安藤守就が西美濃の国衆をまとめ、稲葉山の城に拠る重治に呼応した。曽根、北方の小城がこれに続く。氏家、稲葉の両家は去就を明らかにせず、東美濃の遠山一族は信長との縁を頼んで様子を窺った。龍興は飛騨守らわずかな近臣を従え、長良の流れを下って南の長島方面へと落ちていった。美濃は、斎藤でも織田でもない第三の旗の下に、束の間の重心を得たのである。
この一夜の決断で、美濃は斎藤の国でも織田の国でもなくなった。稲葉山と曽根・北方・墨俣の線は重治と安藤守就の手に握られ、龍興は長島へ落ちて美濃の政から退いた。西美濃の重心は、暗愚な主君の掌からも、東を窺う信長の掌からも外れて、いったんは重治の側へ移ったのである。城を返して筋を通すつもりの奇略は、いまや美濃一国を背負う第三の旗となった。
次に争われるのは、稲葉山の本丸ではない。木曽川と長良川に挟まれた東濃の境、鵜沼と猿啄の城をめぐる織田との対峙である。重治は氏家・稲葉の去就を測りかねる両家に使者を立て、東美濃の遠山一族の動きに物見を放って、川筋の渡しごとに兵を割り当てた。本丸に立った重治は、長良川の白く光る水脈と、その向こうで小牧から動き始めた織田の物見の土煙とを、同じ視野に収めていた。国境の川を挟んで、斎藤の遺臣でも織田の家臣でもない者たちが、いずれの旗に付くかを息をひそめて見定めている――その狭間に、重治は腰を据えた。
史実との差分
史実では、竹中半兵衛重治は永禄7年(1564年)に十数名で稲葉山(いなばやま)城を奇襲で奪ったのち、領地や謀反を目的とせず、暗愚な主君斎藤龍興(さいとう・たつおき)を諫めるための行いであったため、半年ほどで城を龍興へ返還し、自身は隠棲した。3年後の永禄10年(1567年)に織田信長が稲葉山城を落として美濃を平定し、半兵衛はのちに羽柴秀吉に仕える。本作では、半兵衛が城を返還せず、義父安藤守就(あんどう・もりなり)ら西美濃の国衆とともに斎藤でも織田でもない第三勢力として美濃に拠り続ける点が史実と分岐する。龍興が長島方面へ早期に逃れた点、半兵衛が信長と直接対峙する展開も史実には存在しない。
読者ノート
稲葉山(いなばやま)城の乗っ取りは、史実では『諫めの奇略』として知られ、半兵衛の無欲さを象徴する逸話です。本作はその一点、『城を返すか、腰を据えるか』の選択が反転した世界を描きました。1564年時点では、まだ信長の美濃平定も秀吉への仕官も起きていないことに留意してお読みください。半兵衛が筋を通すために、あえて筋を曲げて城を握る——その葛藤を入口として、続く各編で側近・対立者・市井の視点から美濃の行方を追います。