もし細川藤孝・筒井順慶が光秀に味方して参陣していたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
明智光秀は、娘を細川忠興(ほそかわ・ただおき)に嫁がせ、細川家とは縁戚の間柄でした。また大和の筒井順慶(つつい・じゅんけい)は、長く光秀の与力(指揮下の協力大名)として行動を共にしてきました。いずれも光秀が最も頼みにした相手です。
この場面で何が起きていた?
信長を討った光秀は、縁戚の細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)・忠興父子と、与力の筒井順慶(つつい・じゅんけい)に味方を求めました。しかし藤孝は信長の死を悼んで剃髪し中立を表明、順慶も洞ヶ峠(ほらがとうげ)で日和見に徹したと伝わります。最も頼んだ二家に背を向けられ、光秀は孤立しました。
史実ではこうだった
天正十年六月、山城。
明智光秀は、二通の返書を待っていた。一つは細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)。娘・玉を忠興に嫁がせた、縁戚にして無二の友である。一つは筒井順慶(つつい・じゅんけい)。長く与力として轡を並べてきた大和の将である。この二人さえ動けば、畿内の風向きは一気に変わる。光秀はそう信じていた。
だが、届いた返事は冷たかった。藤孝は信長の死を悼むと称して髻を切り、田辺城に籠もって中立を決め込んだ。順慶もまた、態度を曖昧にしたまま大和を動かない。後の世に『洞ヶ峠(ほらがとうげ)の日和見』と語られる、あの去就であった。最も頼んだ二家に背を向けられ、光秀の周りからは潮が引くように人が離れていった。
もし、この二人が光秀の手を取っていたら――。
細川の精兵と筒井の大和勢が山崎へ寄せれば、一万六千の明智勢は二万を優に超える。秀吉の四万と正面から渡り合える数になる。何より、織田家中で重きをなす細川が光秀につけば、態度を決めかねていた畿内の国衆は雪崩を打って従ったであろう。孤立は、求心へと裏返る。
戦は、兵の数だけで決まるものではない。だが、誰が誰につくかという『流れ』は、確かに数を呼ぶ。細川と筒井の参陣は、その流れを光秀の側へ大きく傾けたはずであった。
もしここが変わったら?
もし細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)・忠興父子と筒井順慶(つつい・じゅんけい)が日和見をやめて光秀に味方し、山崎へ参陣していたら、兵力差は縮まり、畿内の国衆も光秀へ傾いて、戦いの行方は大きく変わっていたかもしれません。
もし細川と筒井が光秀のもとへ参じ、山崎で四万と渡り合っていたら
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天正十年六月、本能寺の煙がまだ京の空に淀んでいた頃、明智光秀は近江坂本から早馬を放ち、丹後宮津の細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)・忠興父子と、大和郡山(やまとこおりやま)の筒井順慶(つつい・じゅんけい)に書を送った。縁戚と与力、もっとも頼みとした二家である。返書を待つ刻は長く、坂本の本丸では光秀が文机のかたわらを幾度も歩いた。家臣が報せを携えて駆け込むたび、座は息を詰め、また落胆と安堵のあいだで揺れた。
宮津の細川邸では、藤孝が信長の死を悼んで剃髪をなかば口にしかけた。だが嫡子忠興が父を押しとどめた。忠興の室は光秀の娘・玉である。義父に背けば玉の立つ瀬がなく、細川の名も廃る――忠興の言は短かったが、藤孝の胸に刺さった。老将はしばし瞑目し、やがて宮津に籠もる構えを解いて出陣の触れを下した。郡山の筒井順慶もまた、洞ヶ峠(ほらがとうげ)で旗色をうかがう日和見をやめ、大和衆を率いて山城へ北上した。光秀の使者は、二通の参陣の報を抱いて坂本へ駆け戻った。
二家の参陣は、ただ兵を増やしただけではなかった。織田家中で文武の重きをなす細川が光秀につくと知れ渡るや、態度を決めかねていた畿内の国衆が雪崩を打った。山城の革島・神足の地侍、摂津の一部の在地衆までが旗を連ねる。坂本と勝竜寺(しょうりゅうじ)に集う明智勢は一万六千からみるみる膨れ、二万を優に超えた。孤立と見えた光秀のまわりに、いまや求心の渦が巻き起こっていた。
備中高松から取って返した羽柴秀吉は四万を号していた。だが山崎の隘路、天王山(てんのうざん)の麓に布陣した明智勢は、もはや一蹴される寡兵ではない。光秀は円明寺川を前に陣を布き、細川勢を右翼、筒井勢を左翼に据えて淀川筋の渡渉点を押さえた。天王山の高所には斎藤利三(さいとう・としみつ)が鉄炮足軽を伏せ、寄せ手の側面を睨ませた。
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六月十三日、川を挟んで両軍が動いた。秀吉方の先鋒が浅瀬を渡ろうとするたび、天王山から火縄の煙が噴き、明智の槍衾(やりぶすま)がこれを押し返す。細川忠興(ほそかわ・ただおき)の手勢は右翼で踏みとどまり、筒井勢は左翼の田畔で寄せ手を食い止めた。日が傾いても、いずれの陣も崩れることはなかった。雑兵らは敵の大将がどこにあるかも知れぬまま、ただ目の前の槍を払い、泥田を踏んで耐え続けた。
秀吉は当初、勢いに任せて天王山を奪い、一日で勝負を決する腹であった。しかし高所を先んじて押さえた斎藤利三の鉄炮隊が執拗に側面を撃ち、寄せ手は隘路で渋滞した。後詰の中川清秀(なかがわ・きよひで)・高山右近(たかやま・うこん)の軍も、細川が敵に回ったと知って攻め足を鈍らせる。数こそ勝るものの、地の利と人心の流れは、秀吉の思い描いた一方的な構図を許さなかった。
確かなことは、光秀がもはや孤ならぬということだった。畿内の国衆は細川の動きを見て続々と山崎へ向かい、近江と山城の境はおおむね明智方が握った。秀吉は淀川筋を一気に突き破る目算を失い、摂津富田まで兵を退いて陣を立て直すほかなかった。
天下の帰趨はなお見えぬ。だが争点はすでに移っていた。淀川の渡河点を誰が押さえるか、近江の坂本と佐和山をどちらが背に負うか、京の守りをいかに固めるか――山崎の一日は、その問いを次の局面へと送り出していた。
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史実との差分
史実では細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)は信長の死を悼んで剃髪し田辺城で中立を守り、筒井順慶(つつい・じゅんけい)も洞ヶ峠(ほらがとうげ)で日和見して動かなかった。最も頼んだ二家に背かれた光秀は山崎で約一万六千、対する秀吉四万の劣勢で半日のうちに敗れ、敗走中に落ち武者狩りで横死した。本作では両家が参陣し、畿内国衆も加わって明智勢が二万超となり、山崎で互角に渡り合って秀吉を富田へ後退させる点が史実と異なる。
読者ノート
鍵は兵数そのものより「誰が誰につくか」という流れが新たな兵を呼ぶ連鎖でした。織田家中で重きをなす細川の去就が、迷っていた畿内国衆の背中を押す。日和見が一つ崩れると孤立が求心に裏返る、その分岐点を山崎の布陣に重ねて描いています。