もし光秀が中国大返しを予見し、秀吉の進路を断って迎え撃っていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
明智光秀は、地理を読んで拠点を押さえる戦に長けた武将でした。丹波の険しい地形を攻略した経験から、隘路や要害の使い方を心得ていました。
この場面で何が起きていた?
信長の死を知った羽柴秀吉は、備中高松から約230kmをわずか10日で駆け戻る『中国大返し』をやってのけました。光秀はこの異常な速さを読みきれず、味方も十分に集まらないうちに、摂津と山城の境・山崎で秀吉の大軍と向き合うことになります。
史実ではこうだった
天正十年六月、山城。
明智光秀は、西からの急報に耳を疑った。羽柴秀吉が、もう摂津まで来ている――。備中高松で毛利と対陣していたはずの男が、信長の死を知るや和睦をまとめ、二百里を超える道をわずか十日で駆け戻ってきたのである。中国大返し。誰も予想しなかった速さであった。
史実の光秀は、この速さに虚を突かれた。細川も筒井も動かず、味方は揃わぬ。整わぬ態勢のまま、山崎の地で受け身の決戦に追い込まれていく。
だが、もし光秀が大返しを早くに予見していたら――。秀吉が必ず駆け戻ると読み、その通り道に手を打てたなら、戦の形はまるで違った。
京と摂津をつなぐ道は限られている。淀川と山に挟まれた山崎の隘路、天王山(てんのうざん)の高み、淀や勝竜寺(しょうりゅうじ)の城。光秀の読みは、これらの要害に向く。急ぎ疲れた秀吉の大軍が隘路に頭を突っ込んだところを、高みから鉄砲で叩き、橋を落として足を止め、渡河の隙を突く。地の利を握れば、速さの利は相殺できる。
秀吉の大返しは、奇襲であればこそ凄みがあった。読まれていれば、急ぎ疲れた長蛇の列に変わる。光秀が淀川筋の要害を先に押さえていたなら、迎え撃つのは光秀の側であったはずだ。
もしここが変わったら?
もし光秀が中国大返しを早くに予見し、淀川筋の要害に兵を伏せて秀吉を迎え撃っていたら、急行軍で疲れた秀吉軍の速さの利は削がれ、山崎の決戦は光秀有利に運んでいたかもしれません。
もし光秀が大返しを読み、山崎の隘路で備えていたなら
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天正十年六月、本能寺の煙がまだ京の空にたなびくころから、明智光秀の目は西へ向いていた。備中高松で毛利と対陣する羽柴秀吉が、主君信長の死を知ればどう動くか。常人ならば数日は呆然とし、味方の去就を探り、軍議に明け暮れるだろう。だが秀吉は常人ではない。和睦を一気にまとめ、兵をまとめて返し、誰よりも早く京へ駆け戻る。光秀はその速さを、恐れではなく勘定すべき前提として数えはじめた。
「秀吉は必ず来る。それも、こちらが思うより早く」。坂本の城で光秀は絵図に指を這わせた。備中から京へ至る道は無数にあるように見えて、大軍と荷駄が通れる道は限られる。摂津を抜け、淀川と天王山(てんのうざん)に挟まれた山崎の隘路を抜けねばならぬ。そこは細く、長い列を強いる土地であった。光秀は重臣の斎藤利三(さいとう・としみつ)を呼び、淀城と勝竜寺(しょうりゅうじ)城へ兵を入れさせ、天王山の峰へ鉄砲足軽を急ぎ上げさせた。円明寺川に架かる橋の杭をひそかに緩めさせ、対岸の浅瀬には乱杭を打たせる。米は玄米と干飯(ほしいい)を運ばせ、味噌を桶に満たした。一日の決戦ではなく、長陣をも覚悟しての支度であった。
利三は問うた。秀吉がもし山崎を避け、北の道を回ればいかがなさいますと。光秀は絵図の山々を指でなぞった。北を回れば道は険しく、荷駄は遅れ、京へ着く前に日を費やす。速さを捨てた秀吉など、もはや恐るるに足らぬ。要は、相手にこの隘路を選ばせ、選んだ列の腹を叩くことよ。光秀の読みは、速さを封じることそのものに賭けられていた。
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速さとは、奇襲があってこそ刃となる。読まれていれば、それはただ疲れ切った長い列に過ぎぬ。光秀はそう見切り、追う側ではなく迎え撃つ側へ回った。十日で備中から駆け戻った大軍は、着いたその足で坂を登れはしまい。干飯を噛み、塩辛い味噌をなめ、汗と土埃にまみれた兵が隘路へ吸い込まれる刻を、光秀は天王山の麓で静かに待った。物見の早馬が、秀吉の先手すでに尼崎を過ぎたと告げる。光秀は短くうなずき、鉄砲頭に火縄の支度を命じ、峰の足軽には抜け駆けを禁じて、合図の貝が鳴るまで身を伏せておけと厳しく伝えさせた。
六月十三日、摂津富田を発した秀吉の先手が山崎へ近づいた。天王山の中腹から、明智方の鉄砲が斜めに撃ち下ろす。坂を駆け上がろうとする寄せ手は足を滑らせ、列は前のめりに詰まり、後続が押し合うて隘路を塞いだ。円明寺川の橋へ殺到した一隊は、橋桁が崩れて流れへ落ち、浅瀬を渡ろうとする者を岸上の弓と鉄砲が容赦なく射すくめる。先を急いだはずの軍の足が、ここで完全に止まった。
日が西へ傾くころ、戦線は膠着した。光秀は天王山の峰と淀城、勝竜寺城を確かに押さえ、隘路の喉首を握っている。秀吉は山崎の西、円明寺川の対岸に兵をとどめ、無理押しを避けて陣を固めるほかなかった。速さの利は隘路で削がれ、争いはいまや、淀川筋をどちらが扱うかへ移っている。川を遡って浅瀬を探す秀吉か、橋頭を保って糧道を断つ光秀か。決着は一日の刃ではなく、淀川の水と道の長きにかかることとなった。
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史実との差分
史実では光秀は中国大返しの速さを読みきれず、味方も揃わぬまま山崎で受け身の決戦を強いられ、約4万の秀吉軍に1万6千で敗れた。この物語では光秀が秀吉の急行を早期に予見し、天王山(てんのうざん)・淀城・勝竜寺(しょうりゅうじ)城と円明寺川の橋という要所を先に押さえて隘路で迎え撃つ側に回ったため、一日での決着が淀川筋をめぐる長期対峙へと変わっている。
読者ノート
中国大返しは約230kmを約10日で踏破した強行軍でした。その本質は速度による奇襲性にあり、進路と地形を先読みされた場合に同じ効果を保てたかは大きな分岐点です。山崎の隘路と天王山(てんのうざん)という地の利を、攻守どちらが先に握るかに注目して読むと面白いでしょう。