もし光秀が天王山をいち早く占拠し、地の利を得て戦っていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
明智光秀は、地形を読んで戦いの場を選ぶ目を持つ武将でした。丹波の山岳戦で培ったその眼力は、山崎のような起伏の多い戦場でこそ生きるものでした。
この場面で何が起きていた?
山崎の戦場は、淀川と天王山(てんのうざん)に挟まれた狭い隘路でした。ここを見下ろす天王山の高地を握れるかが勝敗を左右します。史実では明智軍はこの高地の確保に遅れ、秀吉方に押さえられたことが劣勢の一因になったと伝わります。
史実ではこうだった
天正十年六月十三日、山崎。
淀川と天王山(てんのうざん)に挟まれた、細い隘路。明智光秀は、ここで羽柴秀吉の大軍を迎え撃つと決めていた。狭い地である。大軍といえども、一度に押し寄せられる数は限られる。地の利さえ握れば、四万の秀吉勢を一万六千で抑え込むことは、できぬ話ではない。
その地の利の要が、天王山であった。隘路を見下ろすこの高地を押さえた者が、戦場を見下ろし、鉄砲を撃ち下ろし、敵の出足を封じる。
史実において、明智勢はこの高地の確保に遅れた。秀吉方が先に山腹へ取りつき、高みを奪われた明智軍は、低い地から見上げて戦う不利を背負う。狭い隘路は、もはや明智の利ではなくなっていた。
もし光秀が、秀吉の到着に先んじて天王山へ兵を駆け上げていたら――。
山頂と山腹に鉄砲隊を伏せ、隘路に詰めかける秀吉勢の頭上から斉射を浴びせる。橋のたもとを固め、渡河の足を止める。高みを背にすれば、寡兵でも崩れにくい。急ぎ駆け戻って疲れた秀吉の大軍は、登り坂の不利を強いられる。数の差は、斜面と銃口が相殺してくれる。
後の世に、勝負の分け目を『天王山』と呼ぶ。その一語が示すとおり、あの高地を先に握れていたなら、山崎の戦いは光秀の地の利の戦いになっていたはずであった。
もしここが変わったら?
もし光秀が秀吉に先んじて天王山(てんのうざん)の高地を占拠していたら、隘路を見下ろす地の利を握り、数で勝る秀吉軍を高所から抑え込んで、山崎の戦いを互角以上に持ち込めていたかもしれません。
もし光秀が天王山(てんのうざん)を先に占め、隘路を見下ろして戦ったなら
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天正十年六月、山城と摂津の境に横たわる隘路に、夏の靄が低く垂れていた。淀川の水音が右手にあり、左手には天王山(てんのうざん)が黒々とそびえる。狭い道を大軍が抜ければ、数の利はそのまま発揮される。だが、その頭上の高みを誰が握るかで、すべてが変わる土地であった。一夫の関にも擬せられよう難所である。
明智光秀は、それを誰よりも早く読み取っていた。勝竜寺(しょうりゅうじ)城を発した先手は、夜の明けきらぬうちに天王山の中腹へ取りつき、山頂に近い松林に鉄砲足軽を伏せた。柵を組む間もなく、まず銃眼となる岩陰と倒木の配置が指図され、足軽たちは火薬と弾の箱を背負って濡れた斜面を這い上がった。麓の橋のたもとには別働の一隊が据えられ、丸太と土俵で渡りを狭めていく。物見は山頂から街道の彼方を窺い、寄せ手の砂塵が立つのを待った。
羽柴秀吉の大軍が、備中からの強行軍の疲れを引きずって隘路へ押し寄せたのは、その後だった。先頭の足軽は道の幅に押し込められ、後続に押されて列はみるみる詰まった。高みから合図の太鼓が鳴ると、松林に潜んだ数百の銃口が一斉に火を噴いた。硝煙が斜面を白く覆い、隘路の底で人と馬がもつれ合う。退こうにも後ろからは新手が押し寄せ、進もうにも前は壁のごとく塞がっている。登り坂に足を取られた寄せ手は、頭上の射撃にただ身をさらすほかなかった。
秀吉方の物頭は、配下を小隊に割って山腹へ取りつかせようと試みた。だが斜面を駆け上がる兵は、笹と岩に阻まれて半ばで息を切らし、伏せた鉄砲隊の格好の的となっていく。橋では渡河の足が完全に止まり、後続が前へ進めぬまま隘路の底に滞った。数の差は、斜面の高低と絶え間ない銃声によって、少しずつ確かに削られていった。光秀は山頂の床几(しょうぎ)から戦線の伸び縮みを見つめ、無理な追撃を厳に戒めた。
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中腹の松林では、足軽たちが火縄の火種を絶やさぬよう、湿気を避けて筒先をぬぐい続けた。一人が弾込めをする間、隣の者が狙いを定める。高みに伏せた者の身は守られ、見上げて撃つ寄せ手の弾は梢を裂くばかりで届きにくい。物頭の一人が「焦って斜面へ出るな、向こうが疲れるのを待て」と低く繰り返し、列を崩さぬよう叱咤した。下では秀吉勢が幾度も態勢を立て直そうとしたが、そのたびに太鼓が鳴り、斜面に新たな硝煙が湧いた。
日が高くなる頃、戦線の形は定まりつつあった。天王山の高地と中腹の松林、そして淀川に架かる橋のたもとは、確かに明智方が押さえている。秀吉の先手は隘路の入口で停滞し、本隊は後方の富田の村落にとどまって息を整えるほかなかった。一日の決着を望んだ大軍は、その日のうちに隘路を抜けることができなかったのである。
勝敗の帰趨は、まだ濃い霧の中にある。だが戦の争点は、隘路の力ずくの突破から、淀川筋に沿った長い対峙と兵糧の道、そして上流の渡渉点の奪い合いへと移ろうとしていた。後の世が「分け目」を天王山の名で呼ぶ、その重みだけは、この朝の斜面に確かに刻まれていた。
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史実との差分
史実の山崎の戦いでは、明智軍は天王山(てんのうざん)の高地確保に遅れ、羽柴方が先に押さえたことが劣勢の一因とされ、明智軍は短時間で総崩れとなって光秀は敗走・落命した。本作では光秀が高地・中腹・橋のたもとを先に確保し、地形と鉄砲の高所斉射によって秀吉軍を隘路で停滞させ、一日での決着を許さず長期の対峙局面へ持ち込んだ点が異なる。
読者ノート
「天王山(てんのうざん)」は今日「勝負の分かれ目」を指す言葉として残ります。なぜ一つの山が勝敗を決したのか、淀川と山に挟まれた隘路という地形を思い描きながら読むと、高地争奪の重みが見えてきます。