もし光秀が本能寺へ向かわず、そのまま中国攻めの援軍へ向かっていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
明智光秀は、織田信長に重く用いられた重臣で、近江坂本と丹波亀山を領していました。連歌や茶湯に通じた教養人でありながら、丹波平定で武功を重ねた知将でもありました。
この場面で何が起きていた?
天正10年6月、光秀は中国攻めの羽柴秀吉を助けるよう命じられていました。6月1日に亀山城(かめやまじょう)を出陣した光秀は、中国方面へ向かわず京へ進み、翌2日、本能寺にいた信長を襲いました。
史実ではこうだった
もしここが変わったら?
もし光秀が本能寺へ向かわず、命じられた中国攻めの援軍としてそのまま西へ進んでいたら、備中高松をめぐる織田と毛利の戦いはどう動いたでしょうか。
五国割譲――光秀、備中・美作の主となる
天正十年六月、備中高松では、水に囲まれた城を挟み、秀吉の包囲陣と毛利の救援軍が向き合っていた。
光秀が備中高松へ着くと、秀吉は陣幕の中で地図を広げた。
「高松の囲みはこちらで持つ。日向(ひゅうが)守殿には、毛利の前を頼みたい」
「心得た」
明智勢は高松城へ向かわず、毛利の救援軍と向き合う前線へ入った。鉄砲組を丘の裾へ出し、その後ろに槍を並べる。ほどなく桔梗の旗が何本も立った。
数日後、吉川勢が丘を下りてきた。
光秀は鉄砲組を伏せたまま待った。
「近づくまで撃つな」
吉川勢が間を詰める。
「撃て」
銃声が続いた。
先頭が乱れたところへ槍組を出す。だが吉川勢も崩れず、斜面から兵を回して明智勢の右へ食いついた。
「右を下げるな」
昼を過ぎても押し合いは続いた。
やがて明智勢の後方に、新たな織田の旗が次々と現れた。中国へ向かっていた信長の本隊が、ついに備中へ入ったのである。
ほどなく本陣から使番が駆け込んできた。
「上様より。右へ援兵を回すゆえ、その場を支えよとのことです」
「承知」
新たな槍組が右へ入り、崩れかけていた列を立て直した。
光秀は前を指した。
「押し返せ」
鉄砲の一斉射のあと、明智勢が踏み込んだ。
夕刻には吉川勢の旗が丘の向こうへ下がり始めた。
「深追いはするな。前の柵を取れ」
明智勢は毛利方が退いたあとの柵へ入り、外れた横木を掛け直し、破れた箇所を塞いだ。
その夜、光秀は信長の本陣へ呼ばれた。
信長と秀吉が地図を囲んでいた。
「筑前は高松を詰めよ」
「はっ」
信長の指が西へ動いた。
「日向守は先へ出よ」
光秀が地図を見る。
「どの道を取ります」
「攻め口は任す」
「御意」
翌朝から明智勢はさらに西へ進んだ。本道沿いの要所を押さえながら兵と荷駄を前へ送り、毛利方の前線を少しずつ西へ押していった。
数日後、秀吉の陣へ安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)が現れた。
毛利方が講和を詰めたいという。
その夜、信長の本陣に光秀と秀吉が呼ばれた。
秀吉が地図へ五つの札を置いた。
「備中、美作、伯耆、備後、出雲。この五国を毛利に出させます」
信長はうなずいた。
「高松も明け渡させろ」
秀吉が頭を下げる。
信長は続けた。
「清水宗治(しみず・むねはる)には腹を切らせる」
「はっ」
数日後、毛利方の返答が届いた。
五国を割くこと。
高松城を明け渡すこと。
清水宗治が腹を切ること。
信長は書付を読み終えると、秀吉へ渡した。
「受けろ」
講和がまとまり、毛利本隊は西へ退いた。
やがて宗治が自刃し、高松城も織田方へ明け渡された。
城の受け取りが始まったころ、光秀は再び信長の本陣へ呼ばれた。
信長は地図の備中と美作に指を置いた。
「日向守」
「はっ」
「此度の働き、見事であった。備中、美作はお前に与える」
光秀は顔を上げた。
「二国を、私に」
「うむ」
光秀は一礼した。
「ありがたき幸せにございます」
本陣を出ると、光秀は家臣たちを集めた。
「備中と美作へ人数を分ける。受け取る城を確かめよ」
使番が次々と走り出した。
光秀も馬へ乗った。
そして、高松城の向こうへ、桔梗の旗が進み始めた。
史実との差分
史実では、光秀は天正10年6月1日に亀山城(かめやまじょう)を出陣した後、中国攻めの援軍には向かわず京へ進み、翌日に本能寺の信長を襲った。信長も中国方面への出陣を予定していたが、本能寺の変によって実現しなかった。毛利との講和では五か国の放棄も交渉条件となった。本作では光秀が秀吉に合流し、信長も備中へ着陣する。織田方の圧力を受けた毛利は五か国割譲・高松城の明け渡し・清水宗治(しみず・むねはる)の自刃を受け入れ、さらに信長は新たに得た領国のうち備中・美作を光秀へ与える。
読者ノート
本能寺へ向かわなかった光秀は、謀反人にならないだけではありません。中国戦線で信長の命を受けて戦い、その結果として新たな領国まで得ることになります。丹波を治めていた光秀が備中・美作まで領するようになれば、信長政権の中での立場も、その後の西国攻略で担う役割も大きく変わっていきます。
参考資料
- 本能寺の変の再検証―先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合(熊田千尋/京都産業大学日本文化研究所紀要、2020年)
四国政策と本能寺の変をめぐる研究論文。
- 第3章 本能寺の変はなぜ起きたのか?(福知山光秀ミュージアム/福知山市、2019年)
本能寺の変の動機に複数説があることを紹介する博物館解説。
- 斎藤利三宛 長宗我部元親書状(石谷家文書 巻第2)作品詳細(林原美術館所蔵・東京大学史料編纂所撮影/Image Archives)
天正10年の長宗我部元親書状を確認できる史料画像・機関解説。
- 林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含む―(林原美術館・岡山県立博物館/ナガセヴィータ、2014年)
石谷家文書と四国政策を扱う博物館共同研究の機関発表。
- 石谷家文書の研究成果と史料集の出版について(林原美術館・岡山県立博物館/ナガセヴィータ、2015年)
長宗我部・明智・毛利関係の文書を扱う博物館共同研究の機関発表。
- 美濃加茂市民ミュージアム所蔵「(天正10年)6月12日付光秀書状」資料(藤田達生/三重大学研究資料、2017年)
同資料で紹介される天正10年5月21日付の長宗我部元親書状から、信長の意向を受けて阿波の一部から兵を引いたことを確認するために参照。
- 広島県史年表(中世2)嘉吉1(1441)~慶長5(1600)(広島県立文書館/広島県史年表)
天正10年5月22日の備中高松での対陣と、6月4日の清水宗治切腹・毛利方との和睦を確認するために参照。
- 小早川家文書(三百六通)(文化庁・国立情報学研究所/文化遺産データベース)
小早川家文書の概要と小早川隆景の立場を確認できる文化財情報。
- 備中高松城跡(岡山県古代吉備文化財センター/岡山県公式サイト)
備中高松城包囲と本能寺の変後の和睦を扱う文化財解説。
- 天下統一への道(岡山県古代吉備文化財センター/岡山県公式サイト)
備中高松をめぐる羽柴・毛利・宇喜多の関係を扱う歴史解説。