もし光秀が謀反を思いとどまり、そのまま中国へ出陣していたら?
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この武将はどんな人?
明智光秀は、織田信長に重く用いられた重臣で、近江坂本と丹波亀山を領していました。連歌や茶湯に通じた教養人でありながら、丹波平定で武功を重ねた知将でもありました。
この場面で何が起きていた?
天正10年6月、光秀は中国攻めの羽柴秀吉を助けるため出陣を命じられていました。亀山城(かめやまじょう)を出た軍は、西の備中へ向かうはずでした。しかし光秀は途中で軍を反転させ、京の本能寺にいた信長を討ったのです。
史実ではこうだった
天正十年六月、丹波亀山。
明智光秀は、中国攻めの羽柴秀吉を援けるべく、一万三千の兵を率いて出陣しようとしていた。命じたのは主君・信長である。備中高松城を水攻めにする秀吉のもとへ、西国へと向かう手筈であった。
だが光秀の胸には、晴れぬものが澱んでいた。武田攻めの折の叱責、饗応役を解かれた屈辱、丹波・近江の所領を召し上げられるという噂――積もり積もった鬱屈が、京の本能寺にわずかな供しか連れていない主君の姿と重なる。今ならば、討てる。その囁きが、闇の中で頭をもたげていた。
軍は、東へ向かうこともできた。山陰道を西へ進めば援軍、引き返して京へ向かえば謀反。沓掛(くつかけ)の分かれ道で、光秀は馬を止めた。
もし光秀がその囁きを抑え、馬首を西へ向け続けていたら――軍は粛々と中国路を進み、本能寺に変事は起こらない。信長は生き、織田の天下は仕上げの段に入る。光秀は秀吉と並ぶ織田家筆頭の将として、なお信長に仕え続けたであろう。
胸の澱は消えはしない。だが、それが刃となって主君に向かうことだけは、なかったかもしれない。
もしここが変わったら?
もし光秀が謀反を思いとどまり、命のまま中国へ出陣していたら、本能寺の変は起こらず、信長は生き延びて織田政権は天下統一の総仕上げへと進んでいたかもしれません。
もし光秀が沓掛(くつかけ)で軍を返さず、命のまま中国へ西進していたら
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天正十年六月、丹波亀山の城を出た明智の軍勢一万三千は、夜の老ノ坂・沓掛(くつかけ)へ向かう街道を黙々と進んでいた。先頭の旗指物が松明の火に揺れ、馬蹄と草鞋の音が湿った地を打つ。梅雨の雲が低く垂れ、月は出ない。明智光秀は栗毛の馬上にあって、行く手の闇をじっと見据えていた。
沓掛の分かれ道に至ると、隊列の足並みがわずかに乱れた。北へ折れれば京、本能寺。西へ進めば山陽道を下り、備中高松の陣である。光秀の胸には、甲斐攻めの陣中で受けた叱責、堺の客を迎える饗応役を急に解かれた屈辱、出雲石見への所領替えの噂が、澱のように沈んでいた。手綱を握る指に力がこもる。引き返せば、京に泊まる主君はわずかな小姓と供回りしか連れてはいない。一度の急襲で、すべては覆るかもしれぬ。
だが光秀は、ゆっくりと息を吐いた。鬱屈は確かに胸を焼いている。しかし、それを刃に変えた先に何が残るのか。坂本も丹波も、娘を娶せた細川の縁者も、ことごとく業火に巻かれよう。一族郎党の行く末が、闇の中に幻のように浮かんでは消えた。彼は馬を寄せた重臣斎藤利三(さいとう・としみつ)を呼び、低く命じた。「西だ。羽柴どのの陣へ急ぐ」。利三は一瞬、主の横顔を見つめ、何かを言いかけて、やがて深く頭を垂れた。号令が伝わり、隊列は迷いを断つように西の道へ流れ込んでいく。
軍は山陽道を一日五里、六里の歩みで進んだ。雨に道はぬかるみ、川は増し、橋板は流されている。足軽たちは竹筒の水で干飯(ほしいい)をふやかし、味噌を舐めて腹を満たし、濡れた具足を担いで黙々と歩く。鉄砲足軽は火縄と玉薬を雨から庇うのに気を配った。誰も主の胸中など知らぬ。ただ羽柴勢の援軍として備中へ赴く、上役からはそれだけが伝えられていた。陣中ではむしろ、明智どのが間に合えば毛利の大軍も退こうという、頼もしげな噂ばかりが交わされていた。
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数日の後、明智勢は備中高松の包囲陣に加わった。羽柴秀吉の水攻めによって城は濁った湖に浮かぶ島と化し、毛利の後詰の大軍は足守川の対岸に釘付けとなっていた。光秀の到着で織田方の囲みはいっそう厚みを増し、後詰の打つ手は塞がれていく。和議の談合が急速にまとまり、城主清水宗治(しみず・むねはる)の切腹を条件として、使者の小舟が増水した川面を渡った。宗治は舞いを舞い、湖上で腹を切る。高松の城は織田方の手に落ちた。
京の主君はなお健在であった。やがて安土の城から、四国の長宗我部、さらに九州へと向かう次なる仕置きを告げる書状が、諸将のもとへ次々と回されていく。光秀には毛利との境目の押さえを羽柴勢に引き継ぎ、丹波と近江坂本の備えを固め、来るべき四国出兵に備えよとの下知が下った。彼は備中の陣を畳み、西から東へ、与えられた持ち場へと馬首を返す。隊列の後ろでは、利三が一度だけ沓掛の方角を振り返り、何も言わずに前を向いた。
沓掛の分かれ道で選ばなかった北の道は、もはや誰の記憶にも残らない。胸の澱は消えぬまま、しかしそれは刃にはならなかった。明智の旗は織田の旗の隣に並んで翻り、毛利を退け四国へ向かおうとする大きな流れの中へ、静かに呑み込まれていった。
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史実との差分
史実では光秀は沓掛(くつかけ)付近で軍を反転させ、京の本能寺に滞在していた信長を急襲して自害させ(本能寺の変)、二条御所の信忠も自刃した。この分岐では光秀が謀反を断念して命令どおり中国攻めの援軍として西進したため、本能寺の変は発生せず、信長・信忠は生存し、織田政権は四国・九州への天下統一事業を継続する。光秀は討伐されることなく重臣として留まる。
読者ノート
この物語は『もし光秀が思いとどまっていたら』という仮定に基づく創作です。沓掛(くつかけ)での逡巡と決断は史実の行軍経路を踏まえた想像であり、和議や下知の細部は物語上の構成です。実際の人物評価や史実の断定を意図するものではありません。