もし光秀が変の直後、安土城と畿内の要所を電撃的に掌握していたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

明智光秀は、丹波平定で要所の城を次々に攻略した攻城戦の名手でした。地理を読み、拠点を押さえる手腕には定評がありました。

この場面で何が起きていた?

本能寺で信長を討った後、光秀は織田家の本拠・安土城と近江を押さえようとしました。しかし瀬田(せた)橋を落とされて足止めされ、安土入城は数日遅れ、その間に畿内の掌握は中途半端なまま秀吉の大返しを許してしまいます。

史実ではこうだった

天正十年六月二日、本能寺は灰になった。信長は炎の中に消え、二条御所の信忠も自刃した。明智光秀は、京を制した。 だが、京を取っただけでは天下は回らない。光秀が次に向かうべきは、織田家の本拠・安土であった。金銀財宝も、諸国への号令の正統も、あの壮麗な城にある。これを押さえてこそ、謀反は『新たな秩序』に変わる。 ところが史実では、瀬田(せた)橋が落とされていた。守将・山岡景隆(やまおか・かげたか)が橋を焼いて退いたため、光秀の安土入城は数日遅れる。その数日が、致命的であった。近江の城は容易に従わず、畿内の諸将は旗幟を決めかね、光秀は号令の足場を固めきれぬまま、迫り来る秀吉の影に追われることになる。 もし光秀が、変の直後に手勢を二手三手に分け、瀬田の渡しを早々に確保し、安土へ間を置かず乗り込んでいたら――。城の金銀を将兵に分け与え、近江の諸城に使者を走らせ、京の禁裏には献上の品を運ぶ。要所という要所を、迷う者が腰を上げる前に押さえてしまう。 そうして畿内に確かな支配の網を張れていれば、光秀は秀吉の大返しを、足場のある者として迎え撃てたはずであった。

もしここが変わったら?

もし光秀が変の直後、瀬田(せた)橋の足止めを越えて安土城と畿内の要所を電撃的に押さえていたら、味方を募る拠点と時間を得て、秀吉の中国大返しを迎え撃つ態勢を整えられていたかもしれません。

俯瞰視点

もし光秀が変の直後に瀬田(せた)を越え安土を電撃掌握していたら

上部広告
天正十年六月二日、本能寺の煙がまだ京の空に残るうちから、明智光秀は床几(しょうぎ)を立たなかった。信長を討ち、二条御所で嫡男・信忠を仕留めた手は震えてはいない。だが勝敗を分けるのは刃の鋭さではなく、足の速さであることを、この男は誰よりも知っていた。一刻の遅れが、近江一国の去就を覆す。迷う者に考える間を与えれば、その間に敵が育つ。 「斎藤利三(さいとう・としみつ)、半隊を率いて即刻瀬田(せた)へ向かえ。橋を焼かれる前に渡しを押さえよ。山岡景隆(やまおか・かげたか)が腰を上げる前だ。火種を運ばせる暇を与えるな」 命を受けた利三の隊は、夜を日に継いで近江路を駆けた。行軍は無理を承知の早駆けで、馬を継ぎ、足軽には干飯(ほしいい)と味噌玉を腰に括らせただけの軽装であった。瀬田の守将・山岡景隆は橋板の下に油を運ばせていたが、明智勢の松明が思いのほか早く瀬田川の対岸に現れたのを見て、火をかける機を失った。景隆は手勢をまとめて甲賀の山へ退き、瀬田橋はわずかな焼け跡を残したのみで踏みとどまった。渡河はその日のうちに成った。これが、すべての歯車を噛み合わせた。 光秀は間を置かなかった。瀬田を越えた本隊は、抵抗の構えを国衆に整えさせぬまま安土の麓へ達した。城を預かる蒲生賢秀は嫡子・氏郷とともに信長の女房衆を在所の日野へ落とし、城は半ば空になっていた。光秀は天主と城下を焼くことを固く禁じ、織田家の蔵から金銀を運び出させた。
記事中広告
「これは奪うのではない。配るのだ。人は理ではなく、恩で動く」 将兵に、近江の国衆に、去就を迷う者の前に黄金が積まれた。坂本以来の譜代はもとより、旗色を決めかねていた在地の侍たちが、雪崩を打って明智の旗の下に列を作った。長浜城、佐和山城、安土――近江の諸城は数日のうちに明智の手に落ち、あるいは使者を受けて静かに門を開いた。守りの薄い湖北の砦には足軽の小隊を配し、湖上の船をことごとく押さえて、北国からの伏兵を封じた。光秀は溝尾庄兵衛を京へ返して所司代の務めを継がせ、御所と公家衆に礼を厚くし、銀を諸方の寺社に贈って人心を鎮めた。物見の早馬は近江と山城の街道をひっきりなしに往来し、西の報せをいち早く本陣へ運んだ。 だが、男の目は片時も西を離れなかった。備中高松で毛利と対峙していた羽柴秀吉が、変を知ってどう動くか。光秀は確かに足場を得た。瀬田の渡しと安土の蔵、近江一円と京の要所は、いまや明智の網の内にある。山岡は甲賀に退き、織田の女房衆は日野へ逃れたが、畿内の骨格は押さえた。迷う者が腰を上げる前に、確かな足場を得ていた。 しかし足場があることと、勝つことは別である。秀吉が中国路を引き返してくるなら、戦場は淀川の筋――摂津と山城の境、山崎のあたりになろう。光秀は細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)と筒井順慶(つつい・じゅんけい)へ重ねて使者を立てた。返書はまだ来ない。安土の天主から西を望み、男は次に押さえるべきは天王山(てんのうざん)の麓、淀の流れであると見定めていた。畿内の初動は、明智の手で確かに巻き取られた。残るのは、西から来る者をどこで迎え撃つかであった。
下部広告

史実との差分

史実では瀬田(せた)橋の守将・山岡景隆(やまおか・かげたか)が橋を焼いて甲賀へ退いたため、光秀の安土入城は数日遅れた。この間に近江の諸城は容易に従わず、畿内掌握が中途半端なまま、羽柴秀吉の中国大返しによる帰還を許した。本作では光秀が斎藤利三(さいとう・としみつ)を先発させて瀬田の渡しを早々に確保し、間を置かず安土へ入城。金銀の分配で国衆を引き寄せ、近江一円と京の要所を電撃的に掌握する点が史実と分岐する。

読者ノート

本能寺の変の勝敗を分けたのは戦闘力より初動の速度だったという見方を、瀬田(せた)の渡しという一点に凝縮して描いた。光秀が得たのはあくまで足場であり、対秀吉の決着は次の局面に委ねられる。速さで畿内を固めた者が、西から来る速さにどう応じるか、という構図に注目してほしい。