もし朝廷が光秀を支持し、謀反に大義を与えていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
明智光秀は、連歌や古典の教養に通じ、公家との交わりも深い武将でした。京の文化人や朝廷の人々とのつながりは、彼の大きな強みの一つでした。
この場面で何が起きていた?
信長を討った後、光秀は朝廷に銀子を献上し、吉田兼見(よしだ・かねみ)ら公家を通じて接近を図りました。しかし、朝廷から公然たる支持や大義を得ることはできず、世間からは『主君を討った謀反人』と見なされ、味方は集まりませんでした。
史実ではこうだった
天正十年六月、京。
本能寺の煙が消えた後、明智光秀は禁裏へ使者を立てた。銀子五百枚を献じ、京の市中には乱暴狼藉を禁じる制札を掲げる。吉田兼見(よしだ・かねみ)ら旧知の公家を通じ、光秀は朝廷の機嫌を懸命にうかがった。
光秀が欲したのは、金でも官位そのものでもない。『大義』であった。信長を討った者が、ただの謀反人で終わるか、それとも『驕る権臣を除いた者』として認められるか。その分かれ目を握るのは、千年の権威を負う朝廷であった。
だが史実において、朝廷の腰は重かった。勅使は遣わされたものの、光秀を公然と『信長に代わる者』として立てる踏み込みはなされなかった。様子を見る――それが京の選んだ道であった。大義を得られぬまま、光秀は天下の人々の目に『主殺し』として映り続け、細川も筒井も動かなかった。
もし朝廷が、光秀の手を公然と取っていたら――。勅命が下り、官位が与えられ、『新たな秩序の担い手』という看板が掲げられる。畿内の諸将は『謀反への加担』ではなく『朝廷の意に沿う参与』として腰を上げやすくなる。
大義は、兵と同じほどに人を動かす。その大義が光秀の側にあったなら、孤立の構図は大きく違っていたはずであった。
もしここが変わったら?
もし朝廷が光秀を公然と支持し、その挙兵に大義を与えていたら、畿内の諸将や国衆は『謀反人への加担』をためらわず動き、光秀は孤立を免れていたかもしれません。
もし朝廷が光秀に勅命を授け、謀反が大義へと変わったなら
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天正十年六月、本能寺の煙はまだ京の空に薄く尾を引いていた。明智光秀は禁裏へ銀子五百枚を献じ、洛中の辻という辻に乱暴狼藉を禁じる制札を掲げさせた。兵の足音は鎮まり、町は息を吹き返しつつあった。
吉田兼見(よしだ・かねみ)が勅使を伴って光秀の陣を訪れたのは、その数日後である。朝廷の腰は重いのが常であった。だがこの日、勅使の口上はいつもと違った。驕る権臣を除いた者として、光秀に官位を授け、畿内の静謐を委ねるという勅意が、はっきりと言葉にされたのである。武家の私闘ではなく、朝廷の意に沿う参与。その一語が、光秀の立場を根から塗り替えた。
勅命の写しは、瞬く間に近江、丹波、大和へと走った。これまで主殺しへの加担をためらっていた国衆たちが、にわかに色めき立った。坂本城には使者の馬がつながれ、近江の土豪が次々と人質を差し出して恭順を誓った。丹波では旧領の縁を頼って郷士が集まり、丹後の細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)のもとへも、朝廷の意を説く書状が幾度も届けられた。
大和では筒井順慶(つつい・じゅんけい)が動きを決めかねていた。郡山城の評定の間で、家老たちは声をひそめて議を重ねた。謀反人に与すれば家が滅ぶ。だが朝廷の大義を背にした者へ弓を引けば、それもまた不忠ではないか。順慶は容易に旗幟を示さなかったが、洞ヶ峠(ほらがとうげ)の風向きは、確かに以前とは変わっていた。
光秀は焦らなかった。兵を急かすより先に、人の心を縛る大義の網を、一日ごとに広げていった。山崎の隘路には物見を置き、淀川沿いの渡しを押さえ、堺の商人へは安堵の制札を約した。畿内の地侍にとって、いまや光秀に従うことは謀反ではなく、新たな秩序への帰順と映りはじめていた。坂本と亀山の両城には兵糧が運び込まれ、丹波衆の旗指物が連なって、陣立ては日ごとに厚みを増した。
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勝竜寺(しょうりゅうじ)城には斎藤利三(さいとう・としみつ)が入り、淀の渡しから山崎までの守りを固めた。摂津の池田、中川といった織田譜代の将には、朝廷の意を伝える使者が幾度も向かったが、彼らの返答はいまだ煮え切らぬままであった。譜代の情と、大義の重みと、迫る秀吉の影と。三つの間で揺れる者は、光秀のみに非ず、畿内の隅々にいた。それでも勅命という一語の重みは、評定の席で確実に効いていた。
しかし西の備中からは、毛利と和した羽柴秀吉が、すでに兵を返したという報が届いていた。その行軍の速さは尋常ではなく、姫路を経て摂津へ迫る勢いだという。大義は人を動かす。だがその大義が、迫る軍勢の前でどこまで保つかは、まだ誰にも見えていなかった。
確かなことは二つあった。一つは、孤立しかけていた光秀の周囲に、近江と丹波の国衆という確たる足場が築かれたこと。もう一つは、大和の筒井がなお去就を保留し、その一手が畿内の均衡を左右する位置にあること。
決戦の地は、おそらく山崎の狭間となる。淀川と天王山(てんのうざん)に挟まれたその隘路で、朝廷の大義を背負う光秀と、主君の仇討ちを掲げる秀吉が相見える。どちらの旗の下に畿内の諸将が最後に集うのか。京の人々は固唾をのんで、西からの砂塵を見つめていた。
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史実との差分
史実では、朝廷は本能寺の変の後も勅使を遣わすにとどまり、光秀を公然と『信長に代わる者』として立てる踏み込みをしなかった。そのため光秀は世間から主殺しの謀反人と見なされ、細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)・筒井順慶(つつい・じゅんけい)も動かず孤立した。この物語では、朝廷が官位と明確な勅意によって光秀に『新たな秩序の担い手』という大義を与え、近江・丹波の国衆が恭順し、筒井の去就が均衡の鍵となる局面まで状況が裏返っている。
読者ノート
兵力と同じほど『大義』が人を動かす、という政治の力学に注目してください。史実の光秀を孤立させたのは兵の少なさだけでなく、名分の欠如でした。朝廷が一歩踏み込んだとき、同じ畿内の諸将がどう揺れるかを、山崎の対決を前にした緊張とともにお読みいただければと思います。