もし蘆名軍が政宗の急襲に備えていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

伊達政宗は18歳で家督を継ぎ、わずか数年で南奥州を制覇した若き覇者です。22歳で挑んだのが、奥州の名門・蘆名(あしな)氏との決戦『摺上原(すりあげはら)の戦い』でした。

この場面で何が起きていた?

1589年6月、磐梯山の西麓・摺上原(すりあげはら)で、伊達政宗と蘆名義広(あしな・よしひろ)が激突しました。蘆名(あしな)氏は当時の当主が若く、家中は親伊達派と親佐竹派に分裂していました。

史実ではこうだった

天正17年6月5日、磐梯山の西麓に広がる摺上原(すりあげはら)で、伊達政宗と蘆名義広(あしな・よしひろ)が対峙した。政宗22歳、義広15歳。 戦闘は蘆名(あしな)軍の優勢で始まった。西風を背にした蘆名は弓と鉄砲で伊達勢を押し返し、初戦は地の利を活かしていた。だが、戦の最中に風向きが東風に変わると、戦況は一気に逆転した。 それだけではなかった。蘆名家中では、当主・義広が佐竹からの養子であることに不満を持つ譜代の家臣たちが多くいた。富田氏実(とみた・うじざね)をはじめとする重臣の中には、戦の最中に動きを止め、あるいは伊達方に内通する者まで現れた。 統率を失った蘆名軍は総崩れとなった。義広は実家の佐竹のもとへ逃れ、戦国大名としての蘆名氏は滅亡した。政宗は会津・仙道・岩代を手中に収め、南奥州の覇者となった。 しかし、その栄光はわずか1年で終わる。翌1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、政宗は秀吉の天下統一の前に屈服を強いられることとなる。

もしここが変わったら?

もし蘆名(あしな)家中が結束し、政宗を万全の備えで迎え撃っていたら、政宗の南奥州制覇は実現せず、その後の伊達家の運命も大きく変わっていたかもしれません。

俯瞰視点

摺上原(すりあげはら)、崩れぬ蘆名(あしな)――政宗、会津を得られず

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天正十七年六月五日、磐梯山の西麓に広がる摺上原(すりあげはら)には、朝から強い西風が吹いていた。伊達政宗は猪苗代方面から兵を進め、会津を押さえる蘆名義広(あしな・よしひろ)の軍勢と向き合った。政宗は二十二歳。家督を継いでからわずか数年で南奥州に勢力を伸ばした若き当主である。対する義広は十五歳。佐竹から蘆名(あしな)へ入った養子であり、その若さと家中の分裂が、これまで幾度も弱みとして語られていた。 だが、この日の蘆名軍は、政宗が見慣れた蘆名軍ではなかった。前夜、富田氏実(とみた・うじざね)、金上盛備(かながみ・もりはる)、佐瀬種常(させ・たねつね)ら重臣は義広の陣へ集まり、佐竹方か伊達方かという内々の争いを棚上げした。ここで割れれば、会津は伊達に呑まれる。義広が佐竹の血を引くかどうかより、蘆名の家そのものを残すかどうかが問われていた。 夜明け前、富田氏実は各備えへ使者を出した。持ち場を離れる者は、敵へ内通した者と同じ扱いにする。戦の最中に命令なく動くな。義広の旗を中心に、前へ出すぎず、退きすぎず、横の備えとの間を空けるな。厳しい命令だったが、陣は締まった。 戦端は西風に乗って開かれた。風を背にした蘆名勢は、弓と鉄砲を厚く撃ちかけた。煙は東へ流れ、伊達の先鋒を包む。伊達成実(だて・しげざね)の備えが右翼から押し出し、鬼庭綱元(おにわ・つなもと)の兵が中央を支えたが、蘆名の盾と槍衾(やりぶすま)は容易に割れなかった。 政宗は本陣で戦況を見ていた。片倉景綱(かたくら・かげつな)は、蘆名の備えが固いと告げた。政宗は返事を急がなかった。蘆名家中には割れ目がある。風が変わり、押し込めば、誰かが動く。これまで政宗が見てきた奥州の戦では、家中の迷いは必ず戦場に現れた。 昼を過ぎたころ、風向きが変わった。東風である。煙は蘆名側へ流れ返り、蘆名の足軽たちの視界を奪った。伊達勢はここを逃さず、成実が右翼を強く押し、中央の鬼庭勢も前へ出た。蘆名の前列は一度、大きく揺れた。
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しかし、崩れなかった。富田氏実は本陣脇から予備の足軽を前へ出し、金上盛備は左翼の隙を埋め、佐瀬種常は組頭たちへ声を絶やすなと命じた。義広の旗は後ろへ下がらず、若い当主は床几(しょうぎ)から立たなかった。兵に必要だったのは、当主の名采配ではない。旗が動かないことだった。 伊達勢は三度攻めた。三度とも、蘆名の備えは押されながら踏みとどまった。会津へ抜ける道を開ければ、黒川は危うい。蘆名の兵はそのことを知っていた。夕刻に近づくころ、政宗は損害を見て退却を命じた。摺上原でこれ以上兵を削れば、米沢への退き口が危うくなる。 蘆名勢は追わなかった。富田氏実は日橋川を越える深追いを禁じた。政宗の退き口には伏兵の危険があり、若い義広の初勝利を追撃の失敗で汚す理由はない。蘆名軍は摺上原を保ち、会津へ戻った。 数日のうちに、黒川城では義広の名で感状が出された。富田、金上、佐瀬らには、家中の結束を保った功が認められた。伊達政宗は米沢へ戻り、会津侵攻の仕切り直しを迫られた。南奥州の覇権は、伊達へ一気に傾かなかった。 翌年、豊臣秀吉の小田原征伐の触れが奥州へ届いた。政宗は会津を得られないまま、蘆名義広は会津を守ったまま、佐竹義重はその背後に控えたまま、天下人の裁きを受けることになる。摺上原で蘆名が崩れなかったことは、奥州の勝者を決めるのではなく、奥州の未決着をそのまま秀吉の前へ差し出すことになった。
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史実との差分

史実では、摺上原(すりあげはら)で風向きが変わった後に蘆名(あしな)家中の動揺と離反が重なり、蘆名軍は総崩れとなった。この if では富田氏実(とみた・うじざね)、金上盛備(かながみ・もりはる)、佐瀬種常(させ・たねつね)らが事前に家中を締め、風向きが変わっても持ち場を離れなかったため、政宗は会津突破を果たせず撤退する。蘆名は会津を保ち、政宗は南奥州制覇を達成できないまま翌年の小田原征伐を迎える。

読者ノート

この分岐の焦点は、蘆名(あしな)が政宗を完全に滅ぼすことではなく、家中の結束によって会津を守り、伊達の急成長を止める点にある。翌1590年の豊臣秀吉による奥州仕置は避けがたいため、次の局面は伊達・蘆名・佐竹がどの領分を主張して天下人の裁定を受けるかに移る。