もし佐竹義重の援軍が間に合っていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

伊達政宗の最大のライバルは、常陸国の佐竹義重でした。義重は『鬼義重(おによししげ)』と恐れられた猛将で、政宗の南奥州進出に対抗して反伊達連合を形成していました。

この場面で何が起きていた?

1589年の摺上原(すりあげはら)の戦いでは、蘆名義広(あしな・よしひろ)は実兄・佐竹義重の援軍を頼りにしていました。しかし政宗の動きが速く、義重の本隊が到着する前に決戦が始まってしまいました。

史実ではこうだった

天正17年初夏、佐竹義重は弟・蘆名義広(あしな・よしひろ)の窮状を救うため、軍を整え会津へ向かう準備をしていた。しかし伊達政宗の動きは予想を超えて速かった。 政宗は5月末に米沢を出立し、6月初旬には猪苗代盛国(いなわしろ・もりくに)の協力を得て猪苗代に布陣した。佐竹義重が援軍として常陸を出立したのは、ほぼ同時期だった。義重の軍が会津に到達するには、白河を経由してさらに数日を要する。 6月5日、政宗は摺上原(すりあげはら)で蘆名(あしな)軍に決戦を挑んだ。義重の援軍は間に合わなかった。風向きの変化、家中の離反が重なり、蘆名軍は壊滅。義広は実家の佐竹を頼って逃れた。 義重が会津に到達した時、戦は既に終わっていた。義重は弟を救うことも、蘆名家を再興することもできなかった。政宗は南奥州の覇者となり、佐竹の北進政策は完全に頓挫した。 佐竹はその後、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、本領を安堵される。だが、伊達への復讐の機会は永遠に失われた。

もしここが変わったら?

もし佐竹義重の援軍が摺上原(すりあげはら)に間に合っていたら、伊達対蘆名(あしな)・佐竹連合の大決戦となり、南奥州の覇権争いは振り出しに戻っていたかもしれません。

俯瞰視点

鬼義重(おによししげ)、摺上原(すりあげはら)に至る――政宗、会津を断念す

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天正十七年六月、佐竹義重は常陸太田を発ち、白河を越えて会津へ急いだ。蘆名義広(あしな・よしひろ)は佐竹から入った若い当主であり、会津の蘆名(あしな)家中は親佐竹派と親伊達派に揺れている。伊達政宗が米沢を発ち、猪苗代方面へ出たとの報は、常陸にも届いていた。 佐竹勢の行軍は速かった。梅雨前の街道はぬかるみ、白河から会津へ入る道は兵にも馬にも重い。それでも義重は歩みを緩めなかった。伊達が蘆名を飲み込めば、南奥州の均衡は崩れる。会津を守ることは、義広を救うだけでなく、佐竹自身の北の防壁を守ることでもあった。 六月五日、磐梯山西麓の摺上原(すりあげはら)で、伊達勢と蘆名勢は向き合った。政宗は二十二歳。勢いに乗る若き当主である。対する義広は十五歳。若さと家中の分裂は、いつ致命傷に転じてもおかしくなかった。 だが、この日の蘆名本陣には、佐竹の五本骨扇に月丸の旗があった。義重の本隊が、決戦前に会津へ入っていたのである。蘆名勢に常陸勢が加わり、兵数は伊達勢を上回った。数だけではない。佐竹義重がそこにいるという事実が、迷っていた蘆名家臣の足をその場へ縫い止めた。 戦端は西風の中で開かれた。風を背にした蘆名・佐竹連合軍は、弓と鉄砲を厚く撃ちかけた。伊達成実(だて・しげざね)の右翼、鬼庭綱元(おにわ・つなもと)の中央は押し返そうとしたが、連合軍の前列は崩れなかった。佐竹勢は中軍に厚く入り、義広の旗を後ろから支えた。 政宗は本陣からその様子を見ていた。片倉景綱(かたくら・かげつな)は、佐竹本隊の到着によって蘆名家中の離反は望みにくいと告げた。政宗は返事を急がなかった。まだ風がある。まだ押せる。猪苗代盛国(いなわしろ・もりくに)の内応を足場に、会津の入口をこじ開ける余地は残っていた。
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昼を過ぎると、風向きが変わった。東風である。煙は蘆名・佐竹側へ流れ返り、伊達勢には好機が訪れた。政宗は成実に右翼からの圧を強めさせ、中央にも兵を出した。蘆名の前列は一度揺れた。 しかし、そこへ佐竹義重が中軍を前へ出した。義重は深追いせず、崩れかけた場所を塞ぐように兵を差し込んだ。富田氏実(とみた・うじざね)、金上盛備(かながみ・もりはる)ら蘆名重臣も持ち場を離れず、佐竹勢と並んで前線を固めた。風は変わったが、家中は割れなかった。 やがて、伊達側の猪苗代盛国の隊が孤立し始めた。蘆名・佐竹連合軍はそこを狙い、伊達の右翼を押し返した。伊達本隊はなお健在だったが、戦を続ければ損害は増える。政宗は夕刻を待たず、撤退を命じた。 伊達勢は中軍を厚くし、米沢へ向けて退いた。蘆名・佐竹連合軍は深追いしなかった。義重は、米沢方面へ追えば兵站が伸び、伊達の地で反撃を受けると見ていた。今日の目的は政宗の首ではなく、会津を守ることであった。 黒川城では、義広の名で感状が出された。佐竹義重には救援の功があり、富田氏実ら蘆名重臣には家中を保った功があった。政宗は米沢へ戻り、会津侵攻を組み直さざるを得なくなった。南奥州の覇権は、一日で伊達へ傾かなかった。 翌年、豊臣秀吉の小田原征伐の触れが奥州へ届いた。政宗は会津を得られず、義広は会津を守り、義重は佐竹の後見を保ったまま、天下人の裁定を迎えることになる。摺上原で佐竹が間に合ったことは、奥州の勝者を決めるのではなく、奥州の未決着をそのまま秀吉の前へ差し出すことになった。
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史実との差分

史実では佐竹義重の援軍は摺上原(すりあげはら)に間に合わず、蘆名義広(あしな・よしひろ)は政宗に敗れて佐竹のもとへ逃れ、蘆名(あしな)氏は戦国大名として滅亡した。この if では佐竹本隊が決戦前に会津へ到達し、蘆名・佐竹連合軍として伊達勢を迎え撃つ。佐竹本隊の存在により蘆名家中の離反は抑えられ、政宗は会津突破を断念して米沢へ退く。

読者ノート

この分岐の焦点は、佐竹義重が政宗を滅ぼすことではなく、会津を守り、政宗の南奥州制覇を止める点にある。翌1590年の小田原征伐と奥州仕置は避けがたいため、次の局面は、伊達・蘆名(あしな)・佐竹がそれぞれの支配実績を持って秀吉の裁定を受ける政治戦へ移る。