もし政宗が北条と組んで秀吉に抗っていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
伊達政宗は『あと10年早く生まれていれば天下を取れた』と評される野心家でした。秀吉の天下統一が完成しつつある中、独立した大名として抗うか、屈服するかの最後の選択を迫られていました。
この場面で何が起きていた?
1590年の小田原征伐で、政宗には3つの選択肢がありました。早く参陣する、遅参して命乞いする、そして秀吉と戦う。実際には2番目を選びましたが、家中には3番目を主張する者もいました。
史実ではこうだった
天正18年(1590年)、伊達政宗は人生最大の岐路に立っていた。豊臣秀吉が小田原を攻めている。参陣命令は届いている。だが、参陣すれば独立した覇者としての夢は終わる。
政宗の家中では激論が交わされた。片倉景綱(かたくら・かげつな)は『参陣あるのみ』と主張した。一方、母・義姫(よしひめ)の実家である最上義光からは秀吉と戦うべしという密書が届いていたとも伝わる。叔父・伊達成実(だて・しげざね)も独立路線に傾いていた。
北条氏直からも書状が届いていた。『共に戦えば、必ずや秀吉を退けることができる』。両家の連携を確かめる使者のやり取りも続いていた。
だが、政宗は冷静だった。秀吉軍は20万。北条と伊達を合わせても10万に届かない。さらに上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)、最上義光らが秀吉側についており、伊達は背後を突かれる。
政宗は5月、ついに参陣を決断した。米沢を出立し、6月5日に小田原近郊の底倉(そこくら)に到着。3日後、白装束で秀吉に謁見し、命乞いをした。会津は没収されたが、本領は安堵された。
野心の刃は、ぎりぎりのところで鞘に収められた。
もしここが変わったら?
もし政宗が北条と組んで秀吉に抗っていたら、最後の戦国大名連合と豊臣天下統一軍の決戦が生まれ、東国の歴史は根本から変わっていたかもしれません。
独眼竜(どくがんりゅう)、最後の反抗――政宗、北条と結ぶ
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天正十八年三月、米沢城に豊臣秀吉からの小田原参陣命令が届いた。伊達政宗は二十三歳。前年の摺上原(すりあげはら)で蘆名(あしな)を破り、会津・仙道・岩代を得たばかりである。奥州の覇者として立った直後に、天下人の軍門に下るかどうかを迫られていた。
評定は荒れた。片倉景綱(かたくら・かげつな)は、すぐに小田原へ向かうべきだと説いた。北条は強大だが、秀吉の軍勢は徳川、前田、上杉を含み、数も兵站も桁が違う。遅れれば伊達は討伐対象になる。会津を守るためにも、まず秀吉の前に出るべきだという理であった。
だが、伊達成実(だて・しげざね)や一部の重臣は抗戦を唱えた。いま従えば、会津は秀吉の裁定に委ねられる。奥州の独立は終わる。北条氏直からは、秀吉に抗するよう求める書状も届いていた。小田原が持ちこたえ、伊達が奥州で秀吉方を牽制すれば、天下人の東国支配にひびを入れられるかもしれない。
政宗は地図を見た。米沢、黒川、白河、関東、そして小田原。距離は遠い。伊達軍が小田原へ直接合流することは容易ではない。だが、奥州で上杉や最上を引きつけ、秀吉に東国の後方不安を抱かせることはできる。政宗はそこで、参陣ではなく抗戦を選んだ。
米沢から秀吉への返書は出されなかった。かわりに、北条へ密使が走った。伊達は秀吉に従わず、奥州で兵を動かす。小田原が持ちこたえる間に、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)と最上義光を牽制し、秀吉の奥州仕置を遅らせる。危うい連携であったが、政宗は最後の独立をそこに賭けた。
四月、政宗は会津黒川城へ兵を進め、仙道筋と白河口を押さえた。会津には伊達の旗が立ち、伊達成実が前線を支え、片倉景綱は不本意ながら城と補給の手配に回った。景綱にとって、それは勝てる戦ではなかった。だが、主君が選んだ以上、敗れても家を残す道を探すのが家臣の務めであった。
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秀吉の反応は早かった。小田原包囲を続けながら、上杉景勝には会津口への備えを命じ、最上義光には伊達の北を脅かさせた。徳川家康も関東の諸城を押さえ、北条と伊達の連絡路は太くならなかった。政宗の狙いは、北条の粘りを前提にしていた。だが、小田原の包囲は日に日に狭まっていった。
七月、北条氏直は降伏した。小田原は開城し、北条は滅びた。政宗が頼みにした東国最大の同盟相手は消えた。秀吉は、ただちに伊達を許さなかった。参陣命令を拒み、北条と通じた大名を見逃せば、天下の秩序が崩れるからである。
会津には秀吉方の圧力が強まった。上杉勢が西から、最上勢が北から、秀吉方の奉行衆が南から動いた。仙道の国衆は揺れ、伊達に従ったばかりの蘆名旧臣の中にも離反する者が出た。政宗は黒川城で籠城を整えたが、会津は広すぎた。すべての城を支える兵はない。
秋、政宗は黒川城を捨て、米沢へ退いた。会津を保持し続ければ、本拠ごと切り離される。成実が殿軍(しんがり)を務め、景綱が退き口を整えた。伊達勢は多くの兵を失いながら、雪の近づく米沢へ戻った。
冬、米沢城は沈黙した。北条はもうない。会津も失われた。秀吉方は雪で追撃を緩めたが、春になれば再び軍勢が動くことは明らかであった。政宗には、二つの道しか残らなかった。降伏して伊達の家を残すか、最後まで抗して米沢で滅びるかである。
片倉景綱は、降伏の条件を探るべきだと進言した。成実はなお戦う覚悟を見せた。最上義光は山形から伊達領をうかがい、上杉景勝は会津口を固めている。独眼竜(どくがんりゅう)が選んだ最後の賭けは、奥州を震わせた。だが、その賭けは小田原の落城とともに、伊達家そのものの存亡を問う冬へ変わっていた。
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史実との差分
史実では政宗は最終的に小田原へ参陣し、白装束で秀吉に謁見した。会津は没収されたが、本領は安堵され、伊達家は存続した。この if では政宗が参陣命令を拒み、北条と結んで秀吉に抗する。北条滅亡後、伊達は孤立し、会津を捨てて米沢へ退く。伊達家はなお残るが、降伏か滅亡かの選択を迫られる。
読者ノート
この分岐の焦点は、政宗が北条と組めば秀吉を倒せるという単純な話ではない。北条が小田原で長く持ちこたえること、伊達が奥州で上杉・最上を抑えること、秀吉方の兵站が乱れること、そのすべてが噛み合わなければ勝機は薄い。次の局面は、会津を失った政宗が、米沢で伊達家を残すために降るか、独立の誇りを貫いて滅びるかを選ぶ局面へ移る。