もし大森藤頼が計略を見破っていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
伊勢宗瑞(北条早雲)は伊豆を平定した後、次の標的を相模に定めました。その入口が、要衝・小田原城でした。
この場面で何が起きていた?
小田原城には、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏に従う大森藤頼(おおもり・ふじより)が拠っていました。宗瑞(そうずい)は正面から攻めるのではなく、鹿狩りを装って城へ近づき、油断を突いて奪い取ったと伝わります。
史実ではこうだった
伊豆を平定した宗瑞(そうずい)は、相模へ目を向けた。
相模西部の要は小田原城である。城主の大森藤頼(おおもり・ふじより)は、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏に従う有力な国人であった。堅い城を正面から攻めれば、いたずらに兵を損なう。
宗瑞は策を用いたと伝わる。箱根の山で鹿狩りをしたいと申し入れ、勢子(せこ)を装った兵を城の近くへ忍び寄らせた。そして夜陰、多くの牛の角に松明を結びつけ、山から城へと下らせた。
闇に揺れる無数の火を、大森方は大軍の襲来と見た。城内は混乱し、宗瑞の兵が乗じて城へなだれ込んだ。藤頼は防ぎきれず、小田原城は宗瑞の手に落ちた――こう軍記は伝える。
この逸話には後世の脚色が濃いとされるが、宗瑞が小田原を得て相模への足がかりを築いたことは確かである。
もしここが変わったら?
もし大森藤頼(おおもり・ふじより)が宗瑞(そうずい)の鹿狩りと夜襲の計略を見破り、小田原城の守りを固めて待ち受けていたら、宗瑞は奇襲ではなく力攻めを強いられ、相模進出は大きくつまずいていたかもしれません。
見破られた松明――小田原に阻まれた宗瑞(そうずい)の相模進出
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明応(めいおう)の秋、伊豆を平定した伊勢宗瑞(そうずい)は、相模の絵図を前に久しく座していた。堀越公方(ほりごえくぼう)を伊豆から追って数年、次に取るべきは相模西部の要、小田原城である。だが箱根の東麓に拠るこの城を正面から攻めれば、いたずらに兵を損なう。宗瑞は策を立てた。韮山(にらやま)の城を発した使者が、箱根の山で鹿狩りをしたいと小田原へ申し入れたのは、その布石であった。勢子(せこ)を装った兵を山へ入れ、夜陰に乗じて城へ忍び寄る――そういう絵図であった。鹿狩りは口実にすぎず、狙いははじめから小田原ただ一つであった。伊豆を取ったときも、宗瑞は正面の力押しではなく、相手の油断の隙を縫って城へ入った。同じ手が相模でも通じるはずだと、宗瑞は冷静に算盤を弾いていた。
小田原城主・大森藤頼(おおもり・ふじより)は、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏に従う相模西部の有力な国人である。使者の口上を聞いた藤頼は、酒肴を出して丁重にもてなし、表向きは鹿狩りを許した。だが客を送り出して書院に下がると、顔つきを改め、近習を呼んで低く命じた。「箱根の鹿狩りに兵を入れるとは、いかにも怪しい。山道の見張りを倍にし、夜は城門を一つも開けるな。矢も礫(つぶて)も惜しまず備えよ」。伊豆を一代で食らった男の手際を、藤頼は片時も侮っていなかった。
果たして数日後の夜、箱根の尾根づたいに無数の火が現れ、ゆらゆらと山を下ってきた。山肌を埋める松明の群れに、城内の足軽の多くは大軍の進撃と早合点して色を失い、口々に騒ぎ立てた。だが城主・大森藤頼は櫓の上から動かず、火の進み方をじっと見つめていた。「人の駆ける足取りではない。揺れが鈍く、列も乱れておる。あれは牛か馬の歩み。角に松明を結んで大軍に見せかける、古い手だ」。藤頼は門を固く閉ざさせ、矢の一筋も射させず、一兵も城外へ出さなかった。
夜が明けると、城下に残されていたのは焼け落ちた松明の燃え殻と、踏み荒らされた草地、縄を引きずって逃げた牛の足跡だけであった。計略を見抜かれた宗瑞は、奇襲の利をすべて失った。山中で夜明けを迎えた伊勢勢の将兵は、無言のまま兵をまとめるほかなかった。一夜の手の内をことごとく読まれていたという事実は、宗瑞の胸に静かな苦さを残した。
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それでも宗瑞は小田原を欲し、日が高くなると兵を城の麓へ進めた。弓を射かけ、槍をそろえて坂を攻め上らせる。だが土塁と柵に拠った藤頼の手勢は、坂を半ば上った寄せ手へ礫を雨と降らせ、長柄の槍を穂先そろえて突き下ろした。坂は寄せ手の血に汚れ、薙刀が長柄を払い、伊勢勢は幾度も坂下へ押し返された。数日の力攻めで宗瑞は少なからぬ兵を損ない、対陣へ切り替えたが、兵糧を運ぶ箱根越えの細道は伊豆勢の足を重くするばかりであった。
やがて宗瑞は、潮の引くように兵をまとめた。「この城、今は時ではない」。新九郎と呼ばれた頃から、勝てぬ勝負に固執せぬ男である。宗瑞は箱根を越え、伊豆へと整然と引いた。
以後、小田原は大森藤頼の手にとどまった。宗瑞は伊豆と箱根の西麓を確保したものの、相模への入口はなお閉ざされたままであった。足柄と箱根の峠を境に、伊勢方と大森方は数年にわたって対峙を続け、宗瑞の相模進出は停滞した。宗瑞は甥の今川氏親(いまがわ・うじちか)を頼んで駿河の後ろ盾を保ちつつ、境目の城を整え、兵を養い、好機を待った。小田原を本拠とする一族の物語が、果たしてこの地から始まることになるのか――それは、まだ誰にも見えていなかった。
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史実との差分
史実では大森藤頼(おおもり・ふじより)が宗瑞(そうずい)の計略に乗せられ、明応(めいおう)年間に小田原城を奪われた。この if では藤頼が松明の正体を見抜いて守りを固め、宗瑞は奇襲も力攻めも実らず伊豆へ退いた。結果として小田原は大森方が保持し続け、宗瑞の相模進出は足柄・箱根を境に数年にわたり停滞する。
読者ノート
鹿狩りと牛の松明の逸話は後世の軍記物に由来する伝説的色彩が濃く、史実としての裏付けは乏しい。奪取の年次も明応(めいおう)4年説と5年説があり確定していない。この物語は伝説を「見破られたもの」として描いた仮想であり、実際の宗瑞(そうずい)は小田原を得て後北条氏発展の礎を築いた。