真田幸村

さなだ ゆきむら

1567年 〜 1615

真田昌幸の次男。実名は信繁で、「幸村」は後世の軍記・講談に由来する名である。次男のため真田の家督は兄・信幸(信之)が継ぎ、信繁は上杉・豊臣への人質を経て豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原の戦いでは父とともに西軍につき、第二次上田合戦で徳川秀忠の大軍を上田城に引きつけて本戦への遅参を招いた。戦後は高野山麓の九度山(くどやま)に長く配流されたが、1614年の大坂の陣で豊臣方に身を投じ、出城(でじろ)「真田丸」を築いて徳川の大軍を翻弄。翌1615年の夏の陣では家康本陣に決死の突撃を敢行し、安居神社(やすいじんじゃ)で討死した。「真田日本一の兵」と讃えられ、戦国時代の掉尾を飾る武将として今も語り継がれる。本サイトでは知名度を優先し、本文も含めて「幸村」表記を用いる。

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年表

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  • 1567信濃に真田昌幸の次男として誕生(実名は信繁)
  • 1585上杉景勝のもとへ人質に出される(真田の家督は兄・信幸が継ぐ)
  • 1594豊臣秀吉に仕え、左衛門佐に叙任されて一個の武将として遇される
  • 1600第二次上田合戦で父・昌幸とともに徳川秀忠の大軍を上田城に足止め

    慶長5年(1600年)、関ヶ原へ向かう徳川秀忠の大軍を、真田昌幸・幸村父子がわずかな兵で上田城に引きつけ、本戦への遅参を招いた戦い。

    史実

    関ヶ原の戦いに際し、真田家は父・昌幸と次男・幸村(信繁)が西軍、長男・信幸(信之)が東軍に分かれた(犬伏(いぬぶし)の別れ)。中山道を進む徳川秀忠率いる約3万8千の大軍は、上田城に拠る昌幸・幸村父子(数千の兵)を攻めたが、巧みな防戦と挑発に手こずり、城を攻略できないまま貴重な日数を空費した。秀忠軍は関ヶ原本戦に間に合わず、これは家康を大いに憤らせたと伝わる。戦後、本来は死罪に処されるところ、東軍についた信幸とその舅・本多忠勝(ほんだ・ただかつ)らの助命嘆願により、昌幸・幸村父子は高野山麓の九度山(くどやま)への配流に減じられた。寡兵で大軍を翻弄したこの戦いは真田の武名を高め、後年の大坂の陣における幸村の活躍の前史となった。

  • 1600関ヶ原後、罪を減じられ高野山麓の九度山に配流される
  • 1614大坂城に入り、出城「真田丸」を築いて徳川勢を撃退(大坂冬の陣)

    慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で、真田幸村(信繁)が大坂城の南に築いた出城(でじろ)「真田丸」に徳川方を誘い込み、大損害を与えた戦い。

    史実

    1614年、方広寺(ほうこうじ)鐘銘(しょうめい)事件を機に徳川家康が大坂の豊臣家へ兵を向けると、幸村(信繁)は配流先の九度山(くどやま)を脱して大坂城に入った。彼は守りの手薄な城の南面に半円状の出城(でじろ)「真田丸」を築き、攻め寄せる前田・井伊・松平らの徳川勢を巧みに引きつけ、弓と鉄砲で大損害を与えた。徳川方は力攻めの不利を悟って和睦に転じたが、講和の条件として大坂城の外堀が埋め立てられ、真田丸も取り壊されて城の防御力は大きく損なわれた。翌1615年の夏の陣で豊臣方は裸城同然の状態で決戦を強いられ、幸村は家康本陣への突撃ののち討死する。冬の陣での真田丸の奮戦は、寡兵で大軍を翻弄した名采配として後世に語り継がれた。

  • 1615大坂夏の陣で家康本陣へ決死の突撃を敢行
  • 1615安居神社で討死(享年49)
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