もし家康が三成を匿わなかったら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
石田三成は、豊臣政権を奉行として支えた文治派の中心人物です。実務に長けた一方で、加藤清正(かとう・きよまさ)ら武断派の武将たちとは深く対立していました。
この場面で何が起きていた?
豊臣秀吉の死後、政権内では文治派と武断派の対立が激化していました。秀吉の調整役を担っていた前田利家まで死去し、対立を抑える者がいなくなった直後の事件です。
史実ではこうだった
慶長4年閏3月3日、前田利家が没した。豊臣政権で武断派と文治派の対立を抑えていた重しが、ついに失われた瞬間だった。
翌4日の夜、加藤清正(かとう・きよまさ)、福島正則(ふくしま・まさのり)ら七将が大坂の石田三成屋敷を襲撃せんと動き出した。朝鮮出兵で三成が秀吉に讒言したという積年の恨みが、利家の死を契機に噴き出したのだ。
察知した三成は屋敷を脱し、伏見(ふしみ)の徳川家康屋敷に駆け込んだ。最大の政敵に身を預けるという、屈辱的な逃避行だった。
家康は冷静に動いた。七将を呼び出して仲裁し、三成の命を救う代わりに、奉行職からの引退と佐和山への蟄居を命じた。武断派の怒りを鎮め、政敵を表舞台から消し、自らは「政権の調停者」としての地位を確立する――家康にとって、これ以上ない結末だった。
三成は救われた。しかし、政治家としての三成は、この夜に死んだも同然だった。そして翌年、佐和山から再起を期した三成は、関ケ原で家康と最後の決着をつけることになる。
もしここが変わったら?
もし家康が三成の保護を拒み、七将に引き渡していたら、三成はその夜に討たれ、関ケ原の戦いそのものが起きなかったかもしれません。
伏見(ふしみ)の門、開かず――三成、七将に討たる
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慶長四年閏三月四日の夜、伏見(ふしみ)の徳川屋敷の門前に、石田三成が立っていた。供はわずかである。大坂の屋敷を逃れ、夜陰に紛れてここまで来た。前田利家が没した翌日。豊臣政権の中で文治派と武断派を押さえていた重しは、もうなかった。
加藤清正(かとう・きよまさ)、福島正則(ふくしま・まさのり)、黒田長政(くろだ・ながまさ)、細川忠興(ほそかわ・ただおき)、浅野幸長(あさの・よしなが)、池田輝政(いけだ・てるまさ)、加藤嘉明(かとう・よしあきら)。朝鮮出兵以来、三成への怨恨を募らせていた七将が動いた。大坂の石田屋敷はすでに包囲され、伏見への道にも見張りが出ている。三成に残された逃げ場は、最大の政敵である徳川家康のもとだけだった。
門の内側から本多正信(ほんだ・まさのぶ)が現れた。三成は保護を求めた。豊臣政権の奉行として、七将の私闘を止めるよう家康に訴えたのである。
正信は奥へ下がった。しばらくして戻ると、静かに頭を下げた。
徳川家では預かれない。
その言葉に、三成は一瞬だけ動きを止めた。家康が仲裁に出れば、三成は命を保つ代わりに失脚する。それが筋であった。だが、この夜の家康は、その役を選ばなかった。
家康は七将の怒りを止めなかった。表向きには、屋敷の外で起きる私闘に徳川は関わらないという形を取った。だが、門を開かないという判断そのものが、七将への黙認であった。
三成は門前を離れた。伏見の路地には、すでに松明が近づいていた。追手は多くない。だが、三成の供もまた少ない。島左近(しま・さこん)が駆けつけた時、戦う場所は伏見の塀際しか残されていなかった。
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短い戦いだった。左近は数人を斬り伏せたが、数に押された。三成も刀を抜いた。奉行としての言葉も、太閤秀吉への忠義も、この場では刃を止める力にならなかった。夜明け前、三成は伏見の路上で討たれた。
首は大坂へ運ばれた。七将は溜飲を下げた。清正と正則は、三成を討ったことで豊臣家への害を除いたと主張した。家康は表向き、私闘による奉行殺害を遺憾とした。しかし、強い処分は下さなかった。七将を罰すれば、三成を見捨てた自分の判断まで表に出るからである。
豊臣政権の文治派は中心を失った。増田長盛、長束正家、前田玄以らは動揺し、家康への抗議も弱かった。毛利輝元、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)、上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)も、三成を失った豊臣政権内で誰が旗を振るのかを見定められなかった。
家康はその空白を使った。まず七将に恩を売り、婚姻と所領安堵で結びつけた。次に、五奉行(ごぶぎょう)の残りを個別に取り込み、政務を自分の裁可なしには進めにくくした。大坂城の豊臣秀頼に対しては、後見を名目に接近し、淀殿(よどどの)の周辺にも使者を入れた。
翌慶長五年、関ケ原の合戦は起こらなかった。三成という旗印がなければ、毛利・宇喜多・上杉を一つに束ねる西軍は形を取れなかった。家康は会津の上杉景勝に圧力をかけつつ、畿内には大軍を残し、諸大名へ個別の起請文を求めた。
だが、家康の天下取りは、大戦を経ぬぶん静かである一方で、筋書きに欠けていた。関ケ原で逆臣を討った勝者ではない。七将の私怨を黙認し、豊臣政権の奉行を一人消した男として見られる危うさが残った。
政敵は消えた。大戦も避けられた。だが、家康は天下の秩序を守った者としてではなく、秩序の崩れを利用した者として、豊臣政権の中心へ進むことになった。
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史実との差分
史実では家康は三成を伏見(ふしみ)屋敷に匿い、七将を仲裁した。三成は奉行職を退いて佐和山に蟄居し、翌年の関ケ原で家康と対決する。この if では家康が保護を拒み、三成は伏見で討たれる。関ケ原のような東西決戦は起こらないが、家康は『政権の調停者』という立場を得られず、七将黙認の影を抱えたまま豊臣政権内の主導権を握っていく。
読者ノート
この分岐の焦点は、三成が死ねば家康が楽に天下を取る、という単純な話ではない。三成がいなければ反家康連合はまとまりにくいが、家康もまた『三成を討って天下を平定した』という分かりやすい大義を失う。次の局面は、戦場ではなく、七将・五奉行(ごぶぎょう)残党・毛利・宇喜多・上杉・豊臣秀頼を個別に処理する長い政治戦へ移る。