もし三成が島津義弘の夜襲策を容れていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
石田三成は西軍を主導した人物ですが、諸将をまとめる力に欠けると見られ、歴戦の武将たちとの間に溝を抱えていました。島津義弘(しまづ・よしひろ)はその一人で、実戦の呼吸を知る老練な将です。三成と島津の関係が、関ヶ原の戦い方を大きく左右しました。
この場面で何が起きていた?
関ヶ原の戦いは、翌朝の正面衝突だけが勝負どころではありませんでした。前夜、疲れて到着したばかりの敵をどう扱うか――夜討ちという選択肢が、実は目の前にありました。
史実ではこうだった
慶長五年九月十四日の夜、美濃赤坂に徳川家康の本軍が着いた。長い行軍を続けた東軍の兵は疲れ、陣もまだ十分に固まっていない。西軍の島津義弘(しまづ・よしひろ)は、この隙を突く夜襲を石田三成に献じた。疲れた敵が眠りにつく夜のうちに本陣を襲えば、寡兵でも大きな打撃を与えられる、と説いた。
だが三成は、これを容れなかった。正面からの決戦を期し、夜討ちの策を退けた。献策を斥けられた島津義弘は、以後、西軍の指揮に距離を置いた。
翌十五日、関ヶ原で両軍は激突した。島津隊はわずか千五百ほどであった。戦いのあいだ、島津勢はほとんど動かず、ただ陣を守った。やがて小早川秀秋の裏切りで西軍は崩れ、三成は伊吹山(いぶきやま)中へ落ちた。
戦場に取り残された島津義弘は、正面の敵中を突き抜ける「島津の退き口」を敢行した。甥の豊久ら多くの将兵を失いながら、わずかな手勢とともに薩摩へ帰り着いたのである。
もしここが変わったら?
もし三成が島津義弘(しまづ・よしひろ)の夜襲策を容れていたら、疲れた東軍は前夜のうちに崩され、翌日の関ヶ原そのものが起きなかったかもしれません。そして三成と島津の溝も、埋まっていたかもしれません。
今回の視点俯瞰視点
赤坂の夜襲――三成、島津の策を容れて緒戦を制す
慶長五年九月十四日の夜、美濃赤坂に徳川家康の本軍が着いた。木曽川を渡り、美濃路を一気に詰めてきた東軍である。長い行軍を続けた兵は疲れ、赤坂の陣はまだ十分に固まっていない。大垣城の西軍本営には、その報せが次々と届いた。三成は絵図の上に赤坂の位置を確かめ、東軍の到着がこちらの見込みより早いことに、眉を寄せた。
そこへ、島津義弘(しまづ・よしひろ)が進み出た。今宵こそ好機である、と義弘は言う。疲れた敵が眠りにつく夜のうちに赤坂の本陣を突けば、寡兵でも家康の首元へ刃を届かせられる。義弘の手勢は千五百に満たぬが、夜討ちの呼吸を知る薩摩の兵は、闇と地の利をこそ味方とする。老将の声は低く、しかし揺るがなかった。
三成は、しばし黙した。正面からの決戦にこだわる思いはあった。夜討ちは兵の統制が難しく、諸将の足並みも読み切れない。宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)は同心したが、小西行長(こにし・ゆきなが)は慎重を説いた。だが、東軍が赤坂に着いたばかりのいまを逃せば、家康は陣を固め、こちらの利は薄れていく。三成は決めた。島津の策を容れる、と。長く両者の間に積もっていた隔ては、この一言でわずかに緩んだ。
夜半、西軍は動いた。島津義弘と甥の豊久を先鋒に、宇喜多・小西の精鋭が続く。松明を伏せ、旗を巻き、足音を殺して赤坂へ迫る。田の畦を伝い、川の浅瀬を選んで、闇に紛れて距離を詰めた。東軍の物見が気づいたときには、島津勢はすでに柵際へ取りついていた。鉄砲の火が闇を裂き、鬨の声が疲れた陣を叩き起こす。
赤坂の東軍は混乱した。眠りを破られた兵は具足も整わぬまま、闇の中で同士討ちさえ起こした。豊久が先頭で道を開き、義弘がこれに続く。島津勢は本陣の一角へ食い込み、金扇の馬印(うまじるし)の近くまで槍を届かせた。家康は寝所を出て、旗本に囲まれながら陣の後方へ下がる。福島正則(ふくしま・まさのり)、黒田長政(くろだ・ながまさ)らがようやく駆けつけて島津勢を押し返したが、東軍の陣立ては夜のうちに大きく乱された。
未明、家康は赤坂の陣を捨て、東の岡崎方面へ本軍を退いた。家康自身は旗本に守られて陣を脱している。疲れた兵と乱れた陣のまま関ヶ原の隘路へ踏み込めば、待ち構える西軍に包まれる。家康はそう見切り、美濃からの後退を選んだ。西軍は深追いを避け、島左近(しま・さこん)の鐘の合図で兵をまとめ、赤坂の陣所を押さえた。
夜が明けると、赤坂は西軍の手に落ちていた。三成は島津の献策を容れたことで緒戦の主導権を握り、家康を美濃から退かせたのである。関ヶ原での正面決戦は起こらなかった。斥けられることなく存分に戦った島津義弘は、この一夜で西軍先鋒としての働きを確かに示し、三成との間にあった隔ては結束へと変わった。次に争われるのは赤坂でも関ヶ原でもない。東海道の諸城で兵を立て直す家康と、緒戦の勝ちを美濃・近江の確保と毛利・小早川の掌握へつなげようとする三成とが、尾張と近江の間で相対することになる。三成は大垣城の物見に立ち、東へ退く徳川の松明の列が夜明けの霧に消えていくのを、島津義弘とともに見送った。
史実との差分
史実では、島津義弘(しまづ・よしひろ)が関ヶ原前夜に献じた夜襲策を三成が退け、これが両者の不和を深めた。島津は本戦でほとんど動かず、最後に「島津の退き口」を敢行して薩摩へ帰り、西軍は小早川の裏切りで半日で壊滅した。この if では三成が夜襲策を容れ、赤坂の徳川本軍を前夜に急襲する。家康は美濃から後退し、翌日の関ヶ原決戦は起こらず、三成と島津の結束が生まれる。ただし家康の東国基盤と秀忠の兵は健在で、戦いは長期戦へ移る。
読者ノート
この分岐の焦点は、夜襲が成功すれば三成がすぐ天下を取る、という話ではない。重要なのは、三成が島津の献策を容れたことで、史実で西軍崩壊の一因となった両者の不和が結束へ変わり、緒戦の主導権を西軍が握る点にある。次の局面は、家康が東海道で立て直す一方、三成がこの勝ちを毛利・小早川の掌握と近江・大坂の秩序へつなげられるかへ移る。