もし関ヶ原が長引き、官兵衛が九州を平定して中央へ攻め上っていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

黒田如水(官兵衛)は、隠居の身でありながら、関ヶ原の混乱を見て豊前(ぶぜん)中津(なかつ)で自ら軍を起こした稀代の戦略家です。その胸中には、天下への野心がくすぶっていたとも語られます。

この場面で何が起きていた?

如水(じょすい)は、蓄えた金銀を放出して急ごしらえの軍を集め、石垣原(いしがきばる)で大友義統(おおとも・よしむね)を破って九州制圧に乗り出しました。息子・長政は東軍主力として関ヶ原へ出陣しています。如水の真意は、東軍への貢献とも、天下取りの好機をうかがうものとも語られます。

史実ではこうだった

慶長五年九月、豊前(ぶぜん)中津(なかつ)。 黒田如水(くろだ・じょすい)は、隠居の身であった。家督はすでに嫡子・長政に譲り、剃髪して久しい。だが、東西の手切れの報が届くや、その目に静かな光が戻った。 如水(じょすい)は、長年蓄えた金銀を惜しげもなく蔵から出し、浪人や近郷の百姓に銭を握らせて兵を募った。みるみる集まった急ごしらえの軍を率い、九州で旗を揚げる。石垣原(いしがきばる)で大友義統(おおとも・よしむね)を破ると、その勢いは九州各地へ波及していった。 如水の腹は、誰にも読めなかった。東軍のために九州を鎮めるのか。それとも――。 史実では、その問いは宙に浮いたまま消えた。関ヶ原の本戦が、わずか一日で東軍の勝利に終わったからである。如水の九州での働きは大勢を決する前に意味を失い、家康の停戦命令の前に矛を収めた。 だが、もし関ヶ原が長引いていたら――。 美濃の野で東西十数万が幾日も睨み合い、互いに兵を磨り減らしていく。その間に、如水は九州をほぼ手中に収める。豊後(ぶんご)・筑後の城を抜き、肥後の加藤清正(かとう・きよまさ)と境を接し、毛利の旧領にまで手を伸ばす。背後を固めた如水は、瀬戸内を東へ、中央の疲弊した両軍の隙を突いて攻め上る。 東軍でも西軍でもない、第三の旗が、西国から畿内をうかがう。天下分け目は、東西二極の戦いから、如水を加えた三つ巴の様相へと姿を変えていったであろう。

もしここが変わったら?

もし関ヶ原が長引いて東西両軍が消耗し、その間に如水(じょすい)が九州を平定して中央へ攻め上っていたら、天下分け目は東西二極の戦いから、如水を第三の極とする三つ巴へと姿を変えていたかもしれません。

俯瞰視点

もし関ヶ原が長引き、官兵衛が九州を制して東へ攻め上っていたら

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慶長五年の秋、美濃の野では東西十数万の兵が幾日も睨み合っていた。一日で決すると見られた決戦は泥濘と疑心に阻まれ、徳川家康も石田三成も互いの寝返りを恐れて踏み込めぬまま、ただ兵糧だけが日に日に細っていった。雨が幾度も野を濡らし、両軍の陣に病が広がり、夜ごとに陣を抜ける足軽の影が絶えなかった。決戦は決戦のかたちを保てぬまま、長い消耗戦へと姿を変えていったのである。 その報が豊前(ぶぜん)中津(なかつ)へ届いたとき、剃髪して如水(じょすい)と号する黒田孝高(くろだ・よしたか)は、蔵に積んだ金銀を惜しげもなく放出していた。浪人、食い詰めた百姓、流れの足軽までも銭で釣り、ひと月足らずで急ごしらえの軍が膨れ上がる。集まった者の腹を満たすのは白米ではなく、玄米と雑穀(ざっこく)、味噌に干飯(ほしいい)であった。寄せ集めゆえ統制は乱れがちであったが、如水はそれを承知の上で兵を動かす。 まず豊後(ぶんご)石垣原(いしがきばる)で、西軍に与した大友義統(おおとも・よしむね)の軍を如水は破った。鉄炮の音が原を裂き、両軍の足軽が泥に足を取られながら槍を交える。寄せ集めの兵は逃げ腰になりがちであったが、後方に控えた精鋭が崩れを食い止め、ついに大友勢は支えきれずに退いた。如水は逃げる敵を深追いせず、すぐに城の確保へ手を回す。勝ちに乗じて杵築を確保し、府内の城を抜くと、九州の諸城は風になびく草のように如水へ降っていった。如水は休まなかった。豊後を平らげ、筑後の柳川を窺い、北の門司と小倉を押さえて瀬戸内への道を開く。城を抜くたびに兵糧と銭が手に入り、その銭がまた新たな兵を呼んだ。 肥後では加藤清正(かとう・きよまさ)が境を接して睨みを利かせていたが、清正もまた東軍として動く身であり、両者は互いの腹を読みながら無用の衝突を避けた。如水の旗は中津から豊後一円、筑前へと広がり、九州の過半は事実上その手に握られていく。日に十里前後を刻む行軍が、九州の地図を塗り替えていった。
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関ヶ原がなおも決せぬ間、如水は兵を瀬戸内へ向けた。小倉から舟と陸を併せて長門、周防の沿岸を東へ進み、安芸の手前にまで先鋒が達する。疲弊しきった中央の隙を突くこの動きは、東軍でも西軍でもない第三の旗が畿内をうかがう兆しであった。 息子の長政は東軍の主力として美濃にあり、徳川方の勝利のために身を削っていた。父が九州で旗を広げているという報せは長政の耳にも届いていたが、子は子で家康への忠勤に没頭するほかなかった。父と子は、同じ天下を別の理屈で見据えていた。如水の真意が東軍への大いなる貢献にあるのか、己が天下への野望にあるのか、近習や老臣すらも測りかねた。ただ如水の采配には、隠居の老将とは思えぬ鋭さと、何かを待つ者の落ち着きがあった。 確かなのは、豊後・筑前を含む九州の過半が如水の手に落ち、瀬戸内の道が安芸の手前まで東へ開かれたという事実である。美濃の睨み合いがいつ崩れるか、そのとき備後か安芸のあたりで三つ巴の刃がどう噛み合うのか。天下分け目は、もはや一日では終わらぬ長い博打へと姿を変えていた。
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史実との差分

史実では関ヶ原本戦は慶長五年九月十五日に一日で東軍勝利が確定し、如水(じょすい)の九州での戦いは大勢決した後に意味を失い、家康の停戦命令で矛を収めた。この物語では本戦が長期化し、如水が九州の過半を制圧して瀬戸内を東進し、東軍・西軍に並ぶ第三勢力として中央をうかがう局面まで到達している点が史実と異なる。

読者ノート

隠居の身でありながら金で兵を集めた如水(じょすい)の野心と、その実現を可能にした関ヶ原長期化という分岐点を骨格に据えました。東軍にいる息子・長政との立場の交錯、九州制圧から瀬戸内東進への展開を、三つ巴の前夜として描いています。