もし官兵衛が家康の停戦命令を振り切り、島津まで下して九州を統一していたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

黒田如水(官兵衛)は、石垣原(いしがきばる)の勝利を足がかりに、九州各地の城を次々と攻略する勢いを見せました。残る最大の難敵は、関ヶ原で奮戦した猛将を擁する薩摩の島津氏でした。

この場面で何が起きていた?

関ヶ原は東軍の勝利に終わり、家康は各地の私戦に停戦を命じました。九州を席巻していた如水(じょすい)のもとにも、その命令が届きます。史実の如水は、ここで潔く矛を収めました。

史実ではこうだった

慶長五年、晩秋の九州。 石垣原(いしがきばる)で大友義統(おおとも・よしむね)を破った黒田如水(くろだ・じょすい)の勢いは、止まらなかった。豊後(ぶんご)、筑後の城が次々と手に落ち、九州の国衆は如水(じょすい)の旗の下へ吸い寄せられていく。残るは南の薩摩、島津のみ。九州統一は、もはや手の届くところにあった。 そこへ、東からの報せと、一通の書状が届く。関ヶ原、東軍の勝利。そして徳川家康からの、各地の戦を即刻やめよという停戦命令であった。 史実の如水は、この命令の前に矛を収めた。天下の趨勢は決した――そう見極め、潔く兵を引いたのである。九州統一の夢は、あと一歩のところで自らの手で閉じられた。 だが、もし如水が、この命令を振り切っていたら――。 『戦の最中に、敵を前にして退けるものか』。如水は書状を投げ捨て、南へ軍を進める。関ヶ原帰りで疲れ、当主・義弘が戻ったばかりの島津を、整わぬうちに攻め立てる。捨て奸(すてがまり)の退き口で知られる島津の兵は手強いが、九州の大半を固めた如水の包囲は重い。薩摩の城が一つ、また一つと締め上げられていく。 九州が、黒田如水という一人の老将の手で一つに束ねられる。それは、関ヶ原を制してこれから天下を固めようとする家康の前に、西国の果てに生まれた巨大な不確定要素であった。徳川の新しい秩序は、九州をどう呑み込むかという、史実にはなかった難題を抱えて幕を開けることになる。

もしここが変わったら?

もし官兵衛が家康の停戦命令を振り切り、島津まで攻め下して九州を統一していたら、西国の果てに徳川でも御しがたい大勢力が生まれ、天下統一後の秩序は史実にはなかった難題を抱えることになったかもしれません。

俯瞰視点

もし如水(じょすい)が停戦の使者を門前で追い返し、なお南へ兵を進めていたら

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慶長五年の秋、石垣原(いしがきばる)で大友義統(おおとも・よしむね)を破った黒田如水(くろだ・じょすい)のもとへ、上方からの早馬が立て続けに着いた。関ヶ原の一戦は一日で東軍の勝ちと決し、徳川家康は諸国の私戦に矛を収めよと触れを回している、というのである。九州の各地ではすでに如水(じょすい)の旗が城を呑み込み、北と中ほどは大方その手に帰しつつあった。 中津(なかつ)の本陣に届いた停戦の書状を、如水は膝の前に置いたまま長く読まなかった。やがて使者へ向き直り、戦の最中に敵を前にして退ける将があるか、と低く問うた。家中の者は息を呑んだ。隠居の身でありながら、この老将は天下の趨勢が定まったその日に、なお南へ筆を走らせていた。使者は青ざめて上方へ取って返し、如水は黙々と兵糧と人足の手配を改めた。 如水は集めた兵を整え直し、肥後から薩摩へ続く道筋の城を一つずつ締め上げにかかった。金で募った寄せ集めとはいえ、九州の大半を押さえた勢いは重く、行軍は日に五、六里を刻んで南へ伸びた。関ヶ原帰りの島津は当主義弘が薩摩へ戻ったばかりで、兵は疲れ、備えは整っていない。如水はその隙を逃さず、東軍として関ヶ原へ出陣し手薄になった加藤清正(かとう・きよまさ)の肥後を、留守をつく形で抑え、南の道を開いていった。
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薩摩の北辺、出水の押さえが落ち、ついで大口の砦が囲まれた。島津方は捨て奸(すてがまり)の退き口で名高い精兵を繰り出し、如水の前衛をたびたび噛み砕いたが、退いた先には次の囲みが待っていた。一つの城を抜いては次を締め、締めては兵糧の道を断つ。如水の戦は、華々しい決戦を避け、相手の喉元を静かに塞ぐ攻めであった。火縄銃の轟きが川筋に響き、薩摩兵の奮迅をもってしても、囲みの輪は日ごとに縮んでいった。如水は前線へ深入りせず、後方で諸隊の進退を将棋の駒のごとく動かし、無理押しを戒めて損を惜しんだ。寄せ集めの兵をいたずらに死なせては、勢いそのものが萎えると見ていたからである。 年の瀬を前に、肥後一国はことごとく如水の手に帰し、薩摩の入口たる川内川の北岸まで黒田の旗が立った。島津義弘(しまづ・よしひろ)は内城を背に兵をまとめ、なお降らぬ構えを崩さない。如水は無理に城へ攻め寄せず、周囲の郷を抑え、退路を一筋ずつ断っていった。海路もまた、豊後(ぶんご)の水軍を呼んで薩摩湾の口を脅かし、外からの加勢を断とうとした。薩摩と大隅(おおすみ)の二国を残すのみ、というところまで九州は如水の旗の下に束ねられつつあった。 上方では、家康がこの報せに眉を寄せていた。私戦を禁じたその命を、九州の老将一人が公然と踏み越えている。西国の果てに一個の巨大な勢力が立ち上がろうとしていた。家康は、長政の関ヶ原での働きをどう量り、その父をどう御するか、即断を避けて諸将の動きを見つめている。島津を最後まで滅ぼし切るのか、あるいは降して取り込むのか。如水自身もまだ刀の収めどころを定めかねていた。九州をほぼ一手に握ったこの老将と、天下を固めようとする家康。両者の間に張り詰めた糸が、これからどちらへたわむのか、まだ誰にも読めなかった。
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史実との差分

史実では、如水(じょすい)は関ヶ原本戦が東軍勝利に終わり家康が停戦を命じると、天下の趨勢が決したと見て潔く矛を収め、九州統一の夢を自ら閉じた。長政の大功もあり黒田家は筑前福岡五十二万石を得た。この物語では如水が停戦命令を振り切って南進を続け、肥後を制し薩摩の入口まで島津を追い詰めた点が史実と分岐する。

読者ノート

なぜ如水(じょすい)は天下の決した日になお兵を進められたのか。隠居の老将が家康の命に公然と背くという危うさと、九州を一手に束ねる器の完成があと一歩に迫る緊張を、攻防の運びとともに読み取ってください。