もし官兵衛が家康の停止要請に従わず、薩摩方面へ進軍を続けていたら?

この話の背景を読む

この武将はどんな人?

黒田如水(官兵衛)は、関ヶ原のころには家督を子の長政へ譲っていましたが、九州に残って兵を集め、石垣原(いしがきばる)で大友方を破りました。その後も各地の城をめぐる軍事行動や交渉を続け、加藤清正(かとう・きよまさ)と行動をともにする局面もありました。清正をはじめとする九州の諸将も、それぞれの家と領国を背負って戦後の情勢を見定めていました。

この場面で何が起きていた?

九州で官兵衛の軍事行動が続く一方、関ヶ原本戦は東軍の勝利で決着しました。家康は全国の戦後処理を始め、官兵衛にも薩摩方面への進軍を止めるよう求めたとされます。官兵衛はこの要請を受け、薩摩へ進まず兵を止めました。

史実ではこうだった

慶長五年、黒田長政(くろだ・ながまさ)が徳川方として東へ出陣する一方、隠居していた官兵衛は九州に残り、兵を集めました。 官兵衛は九月十三日の石垣原(いしがきばる)で大友方を破り、その後も城の開城を受けながら軍事行動を続けます。加藤清正(かとう・きよまさ)とともに肥後南部方面へ進んだとされますが、肥後では清正が独自の勢力を持ち、さらに南には薩摩・大隅(おおすみ)・日向(ひゅうが)諸県郡を基盤とする島津氏が備えていました。 その間、九月十五日の関ヶ原本戦は東軍の勝利で決着します。全国の戦後処理を始めた家康は、官兵衛にも薩摩方面への進軍を止めるよう求めたとされます。官兵衛はその要請を受け、薩摩へ進まず兵を止めたとされます。 島津氏は官兵衛に服属せず、徳川方との交渉を続けました。慶長七年には薩摩・大隅・日向諸県郡の領有を認められます。一方、長政は関ヶ原での働きを受け、筑前へ移りました。

もしここが変わったら?

もし官兵衛が家康の停止要請に従わず進軍を続けていたら、南九州の攻防だけでなく、誰が戦争を終わらせ、城や戦功を認めるのかが争われます。官兵衛の選択は、家康、長政、九州諸将、島津氏をどのような判断へ向かわせるのでしょうか。

今回の視点俯瞰視点

国境を越える――如水(じょすい)、出水で孤軍となる

慶長五年の晩秋、黒田如水(くろだ・じょすい)の軍は肥後・水俣まで南へ進んでいた。

そこへ徳川家康から、薩摩方面への進軍を止めよとの知らせが届いた。その日のうちに、加藤清正(かとう・きよまさ)が如水(じょすい)の陣へ来た。

「徳川殿は、ここで兵を止めよとのことじゃ」

清正はそう言って如水を見た。

「わしは水俣に残る。如水殿はどうする」

「南へ行く」

「国境を越える気か」

「ああ。薩摩の北口、出水へ入る」

翌朝、黒田勢が水俣を発った。

街道を南へ進み、肥後と薩摩の境を越える。

栗山善助が振り返ると、水俣の陣には加藤勢の旗が残ったままだった。

昼過ぎ、物見が戻った。

「この先に島津方の兵がおります。道へ木戸を置き、鉄砲を構えております」

「数は」

「多くはありませぬ。ただ、一騎が南へ走りました」

如水は鉄砲隊を前へ出した。

木戸へ近づくと島津方から銃声が走り、先頭の足軽が倒れた。黒田方も撃ち返す。道脇へ回った槍足軽が側面から迫ると、島津兵は木戸を捨てて南へ退いた。

「追うな!」

如水は兵を止め、木戸を外させた。街道を見下ろす高みに番を置き、その日の陣を薩摩側へ移した。

翌朝、南の丘に島津方の旗が増えた。

水俣から加藤勢は来なかった。

さらに翌日、島津忠恒が徳川方へ使者を立てたとの報せが入った。黒田勢は家康の命で薩摩へ入ったのか。それとも、その命に背いて国境を越えたのか。島津方は徳川に答えを求めていた。

日が重なるにつれ、小競り合いが増えた。

島津兵は黒田の陣へ深く攻め込まず、黒田勢も出水の奥へは進めない。負傷者が増え、善助は兵糧と鉄砲玉を毎朝数え直した。

「清正殿からは」

「動かぬとのことにございます」

如水は南の備えを見に出た。

黒田勢の越境を知らせる早馬は、すでに上方へ向かっていた。

それからさらに日が過ぎた。

水俣を経て、徳川方の使者が如水の陣へ入った。

家康からの新たな命だった。

九州の諸将は黒田勢の南進に加勢しないこと。如水が薩摩で受け取った城地や所領についても、勝手な処置は認めず、戦後の裁定を待つこと。

使者は続けた。

「長政殿にも、父君の南進を支えぬよう申し渡されております」

善助が如水を見る。

「これでも進みまするか」

「明日は進まぬ。だが、水俣へは戻らぬ」

「兵糧は、あと五日ほどにございます」

「負傷者を水俣へ戻せ。荷駄を減らせ」

翌朝、負傷者を乗せた馬が北へ向かった。

その脇を、鉄砲玉を積んだ荷駄が南へ進む。

如水は薩摩側に置いた番所まで馬を進めた。

南の丘では、島津方の陣が前日より広がっていた。

如水は一度、北を振り返った。

その陣の外に、黒田とともに進む他家の旗は一本もなかった。

史実との差分

史実では、黒田如水(くろだ・じょすい)は加藤清正(かとう・きよまさ)らとともに肥後の佐敷・水俣まで進みましたが、徳川家康の要請を受けて薩摩方面への進撃を中止しました。本作では、如水(じょすい)が停止要請に従わず、黒田勢だけで肥後・薩摩国境を越えて出水方面へ入り、島津方の国境兵と交戦します。島津忠恒が黒田勢の越境を徳川方との交渉材料とすること、家康が九州諸将へ黒田への加勢を禁じ、如水が得た城地の独断処置を認めないことは、本作の創作です。

読者ノート

薩摩へ入ることに成功しても、それだけで九州を制することはできません。如水(じょすい)が家康の停止要請を無視したことで、島津は黒田と戦いながら徳川との交渉を進め、清正ら九州諸将は如水から離れます。国境を一つ越えた結果、如水が軍事的に前進するほど政治的には孤立していく点に注目してください。

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参考資料

史実と創作の扱いについて →