もし今川義元が桶狭間で休息を取らず進軍を続けていたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
織田信長は当時27歳、尾張の若き当主でした。家督を継いで間もなく、東の大国・今川義元に攻め込まれていました。
この場面で何が起きていた?
1560年5月、駿河・遠江・三河を支配する今川義元が2万5千の大軍で尾張に侵攻しました。信長の手勢はわずか3000。圧倒的な戦力差の中で、信長は奇襲を選びました。
史実ではこうだった
永禄3年(1560年)5月19日、今川義元の2万5千の大軍は尾張に侵攻していた。沓掛(くつかけ)城を出立した義元は、午前中に大高城方面に向かう途中、田楽狭間で大休止を取った。
信長は早朝に清洲城を発し、わずか3000の手勢で熱田神宮に到着していた。義元の位置を探る間に、午後から豪雨が降り始めた。
信長は決断した。豪雨に紛れて田楽狭間の今川本陣を急襲する。義元は雨で混乱した本陣で、警戒を緩めていた。
信長軍は山道を駆け下り、義元本陣に突入した。混戦の中、毛利新介が義元の首を取った。今川軍は総崩れとなり、駿河へ撤退した。
信長は当時27歳。この勝利が天下取りの第一歩となった。今川家は当主を失って急速に衰退し、徳川家康(当時松平元康)は今川から独立する道を歩み始めた。
もしここが変わったら?
もし義元が田楽狭間で休まず進軍を続けていたら、信長は奇襲のチャンスを失い、今川軍はそのまま尾張を席巻していたかもしれません。
止まらぬ義元――田楽狭間を過ぎた大軍
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永禄三年五月十九日、尾張東部の街道は朝から重い足音に揺れていた。駿河・遠江・三河を従えた今川義元は、二万を超す大軍を率いて沓掛(くつかけ)城を発った。丸根・鷲津の織田方砦が落ち、松平元康が大高城へ兵糧を入れたとの報も届いている。前夜からの戦果が立て続けに伝わり、今川勢の士気は高かった。槍を担ぐ足軽の列は街道を埋め、荷駄は土埃を上げて続いた。
田楽狭間は、兵を休ませるには都合のよい窪地であった。木立が日を遮り、谷あいには水もある。だが、この日の義元は輿を止めなかった。松井宗信が馬を寄せ、兵の疲れを案じても、義元は首を振った。織田信長が清洲を出たとの報がある。若い尾張の当主が、ただ籠もっているとは限らない。止まれば、陣は緩む。陣が緩めば、小勢に口を与える。義元はそう読み、輿の歩みを止めさせなかった。
同じころ、信長は熱田神宮で戦勝を祈り、善照寺砦へ入っていた。手勢は三千ほど。正面から当たれば押し潰される。勝ち筋は、義元の本陣が田楽狭間で止まり、そこへ雨か混乱に紛れて斬り込むことだけであった。信長は物見を幾度も放ち、義元の所在を探らせた。櫓の上から東を睨む横顔には、焦りと冷静さが同居していた。
午後、空が黒く沈み、桶狭間(おけはざま)一帯に激しい雨が降り出した。山道は泥に変わり、木々は風にしなった。信長はこの雨を待っていた。視界を閉ざす雨こそ、小勢が大軍へ忍び寄る唯一の幕である。だが、戻ってきた物見は泥だらけの顔で膝をついた。今川本隊は田楽狭間にいない。すでに桶狭間山を越え、鳴海寄りの街道を進んでいるという。
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信長は善照寺砦の物見櫓に上がった。雨の向こうに、無数の幟が西へ動いていた。止まった本陣ではない。隊列を保ったまま行軍する大軍である。三千で追いつき、横腹を突くには距離がありすぎる。雨の中で正面からぶつかれば、織田勢は泥に足を取られたまま呑まれる。待っていた雨は降った。だが、斬り込むべき的が、その雨の向こうで動き去っていた。
家臣の中には、今こそ討って出るべきだと叫ぶ者もいた。だが、信長は許さなかった。奇襲の形を失った小勢は、小勢でしかない。夕刻、信長は善照寺砦を退き、清洲へ兵を返した。雨はなお兜を打ち、濡れた具足は兵の背に重くのしかかった。誰もが押し黙ったまま、泥の道を西へ歩いた。
義元はその夜、鳴海・大高・沓掛を結ぶ線に兵を置いた。翌五月二十日、松平元康は大高城周辺の守備を命じられ、朝比奈泰朝は鳴海口を固めた。今川方は清洲へ急がず、まず尾張東部の城と街道を押さえにかかった。逆らう砦は囲み、従う村には乱妨を禁じる。じわじわと締める構えであった。
六月に入ると、織田方は鳴海・大高方面の即時奪回を断念し、清洲・那古野・小牧へ兵を寄せた。今川方は沓掛から鳴海へ続く道に番を置き、熱田へ向かう荷を改め始めた。その夜、清洲城の広間で、信長は東尾張の地図を広げた。善照寺の印を薄くなぞり、那古野と小牧に新たな印を置く。義元の本陣へ斬り込む道は、雨の中で消えた。これから測るべきは、清洲を守りながら、今川に押さえられた鳴海・大高の線をどこから断つかであった。
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史実との差分
史実では義元が田楽狭間で大休止を取り、信長は豪雨に紛れてその本陣を急襲した。この if では義元が休まず進軍を続けたため、信長は奇襲の対象を捕捉できず、善照寺砦から清洲へ退く。今川方は鳴海・大高・沓掛(くつかけ)を結ぶ支配線を固め、織田方は清洲・那古野・小牧を中心に防衛を組み直す。
読者ノート
この分岐の大きな変化は、義元が単に生き残ったことではなく、信長の奇襲機会そのものを消し、尾張東部を今川の支配線として固定し始めた点にある。結末は不確定だが、次の局面は田楽狭間の一撃ではなく、清洲を中心とした防衛と鳴海・大高方面の切り返しへ移っている。