もし信長が籠城を選んでいたら?
この話の背景を読む
この武将はどんな人?
織田信長は若き当主として、家臣たちの信頼を完全には得ていませんでした。『うつけ』のあだ名はまだ消えておらず、戦評定では家臣の意見が分かれることが多かったのです。
この場面で何が起きていた?
1560年5月、桶狭間(おけはざま)の前夜の清洲城戦評定では、家臣の多くが籠城策を主張しました。信長は黙して語らず、夜に敦盛を舞った後、突如出陣を命じました。
史実ではこうだった
永禄3年(1560年)5月18日夜、清洲城の戦評定。
今川義元の2万5千が尾張に侵攻している。鳴海・大高・沓掛(くつかけ)の各城が次々と今川方の手に落ちた。信長軍は3000余り。圧倒的な戦力差だった。
家臣たちの多くは籠城を主張した。柴田勝家、林秀貞、佐久間信盛ら。清洲城は堅固で、籠もれば援軍を待つ時間が稼げる。野戦に出れば全滅は必至だった。
信長は黙して語らず、評定を打ち切った。家臣たちは『また何も決まらぬ』と落胆して帰った。
しかし夜半、信長は突然立ち上がり、能の『敦盛』を舞った。「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり――」舞い終えると湯漬けを掻き込み、具足を着けて出陣を命じた。
供は森可成、毛利新介ら数騎。城を出ると、家臣たちが慌てて追従した。熱田神宮で戦勝祈願を済ませ、3000の兵を率いて善照寺砦へ進出。午後の豪雨に紛れて田楽狭間の今川本陣を急襲し、義元の首を取った。
この夜の決断がなければ、桶狭間(おけはざま)の伝説は生まれなかった。
もしここが変わったら?
もし信長が家臣の進言通り籠城を選んでいたら、奇襲は起こらず、信長は今川の攻囲下で長期戦を強いられていたかもしれません。
閉ざされた清洲――信長が出なかった夜
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永禄三年五月十八日の夜、清洲城の評定の間には、重い沈黙が落ちていた。今川義元の大軍は尾張東部へ踏み込み、鳴海・大高をめぐる織田方の砦は揺らいでいる。沓掛(くつかけ)から伝わる報せはどれも芳しくなく、灯火のもとで広げられた絵図の東半分は、すでに今川の旗で塗りつぶされたかのようであった。信長の手勢は三千ほど。柴田勝家、林秀貞、佐久間信盛らは、野戦を避け、清洲に籠もるべきだと進言した。
清洲城は堀も深く、城下を抱え込めば、しばらくは耐えられる。だが、籠城は勝利ではない。援軍のあてが薄いまま城に入れば、時を稼ぐほどに城内の飯と人心が削られる。信長はそれを知っていた。それでも、二万を超す今川勢に三千で挑む危うさを、家臣たちは口々に説いた。父信秀が遺した家を、一夜で散らすなと言うのである。
やがて信長は立ち上がり、扇を広げて敦盛を舞った。低く謡う声が板間に響き、家臣たちは、ついに出陣の下知が下ると身構えた。だが、舞い終えた信長は湯漬けをひと口かき込むと、具足には手を伸ばさなかった。
「城を閉じよ」
短い一言だった。勝家はわずかに目を見開き、林は深く頭を下げた。佐久間は安堵とも恐れともつかぬ息を吐いた。夜明け前、清洲の門は閉ざされ、城下の町人と近在の百姓が堀の内へ押し寄せた。荷を背負った者、子の手を引く者が列をなし、井戸が改められ、米蔵と雑穀(ざっこく)の俵が数えられ、櫓には弓と鉄砲が並べられた。鉄砲はわずかしかなく、玉薬も多くはない。守りの要は、結局のところ堀の水と城内の蓄えにあった。勝家は門ごとに番の者を割り当て、林は俵の数を帳面に記し、佐久間は逃げ込んだ百姓を労役へ振り分けた。慌ただしい一夜のうちに、清洲は逃げ込む者を抱えた城へと姿を変えていった。
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五月十九日、田楽狭間では今川義元が休息を取り、やがて織田が籠城に入ったとの報を受けた。義元は急がなかった。打って出ぬ敵を無理に攻める必要はない。朝比奈泰朝に清洲周辺の道を押さえさせ、松平元康には大高城周辺の守りを固めさせた。
翌二十日、今川の先手は清洲城下の外れに火を放ち、東の街道沿いに付城(つけじろ)を築き始めた。煙は堀の内からも見えた。信長は天守から城下を見下ろしたが、表情を動かさなかった。側に控えた毛利新介は、主君の指が欄干を強く押して白くなっているのを見た。新介はかける言葉を持たず、ただ半歩下がって控えた。城下では、馴染みの町屋が次々と炎に呑まれ、焼けた木の匂いが堀を越えて天守まで漂ってきた。
六月に入ると、城内の配給は玄米と雑穀を混ぜた飯に改められ、町人には薄い味噌粥が渡された。勝家は櫓を巡り、夜番を増やした。林は今川との和議の糸口を探り、佐久間は西尾張の兵を清洲へ寄せる手配を進めた。だが、城内では内応の噂が夜ごとに形を変えて広がり、誰がそれを口にしたのかも分からぬまま、井戸端から櫓へと移っていった。
月末、今川方は清洲東に二つ目の付城を築き、鳴海・大高・沓掛から続く兵糧道を太くした。信長はまだ降らない。だが、清洲から鳴海へ打って出る道は、今川の柵と番兵に塞がれていた。その夜、信長は清洲の広間で地図を広げ、鳴海と大高の印から筆を離した。代わりに、清洲の東門、庄内川の渡し、那古野へ続く道に小さく丸を付けた。出なかった一夜の代償は、城の外ではなく、城の内側から数え直され始めていた。
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史実との差分
史実では信長は家臣の籠城論を退けて出陣し、田楽狭間で義元を討った。この if では信長が家臣の進言に従い、清洲城で籠城を選ぶ。奇襲は起こらず、今川方は清洲周辺に付城(つけじろ)を築き、織田方は清洲・那古野・庄内川の線で防衛を組み直す。
読者ノート
この分岐の大きな変化は、信長が敗れたことではなく、主導権を城外で握る機会を失い、清洲城内の兵糧・人心・和議論に縛られ始めた点にある。結末は不確定だが、次の局面は奇襲戦ではなく、清洲を中心とした籠城と付城(つけじろ)への対応へ移っている。